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楊梅通界隈東洞院通上野街道西大路通

関西歴史紀行とは

時空を深く掘り下げ、埋もれた歴史と記憶のきらめきに出会う……。

今を生きる私たちは、決して歴史と無縁の存在ではなく、むしろ歴史の時の流れのなかに生きているのではないでしょうか。古寺や古社、いにしえの場や老舗店に出向くと、どこからか、懐かしく香ばしい風が吹いてきます。遥かな時の彼方から呼びかける声に耳を澄ますと、脈々と連なる歴史のが私たちを包み込んでくれる気がします。

「関西歴史紀行」は、21世紀にいながら遠い昔へいざなう旅の扉です。
さあ、扉を開けてみてください。

初めのテーマは京都。千年の都には、多くの豊かな物語が満ち溢れています。平安京から鎌倉、室町、安土桃山、江戸、幕末を経て平成の現代まで、東西南北、碁盤の目状に幾筋もの通りがっています。上ル下ル東入ル西入ルと呼ばれる京の通りをご案内して参ります。あなたのお気に入りの場所を見つけてください。

碁盤の目を歩く

北大路、西大路、東大路、そして九条大路の間を「洛中」と呼び、これが平安京本来のエリア。この四角くて大きな空間が、有名な碁盤の目です。桓武天皇が長岡京から遷都してきた当時のものもあれば、その後、豊臣秀吉が改造して設えた通りもあります。京都を知るには、この「通り」を歩くことが最も近道であり、しかも深い物語を読み解くことができます。

京都の通り

平安京が建都されたその後、豊臣秀吉の京都大改造で、更に整備が進みました。
今なお残り、私たちが歩くことができる「通り」は、東西37本、南北32本、合計69本。

columu 京都の子供たちは「わらべ唄」にして通りの名前を覚えました
「丸竹夷」まる たけ えびす に おし おいけ あね さん ろっかく たこ にしき し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せきだ ちゃらちゃら うおのたな ろくじょう さんてつ とおりすぎ ひっちょうこえれば はっくじょう じゅうじょうとうじで とどめさす
「東西の通り丸太町通から南へ九条通まで」丸=丸太町通、竹=竹屋町通、夷=夷川通、二=二条通、押=押小路通、御池=御池通、姉=姉小路通、三=三条通、六角=六角通、蛸=蛸薬師通、錦=錦小路通、四=四条通、綾=綾小路通、仏=仏光寺通、高=高辻通、松=松原通、万=万寿寺通、五条=五条通、雪駄=現揚梅通、ちゃら=鍵屋町通、ちゃら=銭屋町通、魚の棚・六条=六条魚棚通=現六条通、七条=七条通、八条=八条通、東寺道=東寺道、九条大路=九条通

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN46 楊梅通界隈 Youbai

楊梅通界隈 Youbai楊梅通界隈 Youbai
楊梅通界隈 Youbai

 楊梅通(ようばいどおり)は、平安京の楊梅小路に由来する通りで、昔は楊梅と書いて「やまもも」と読んでいたそうです。中国から白桃や黄桃が入って来る以前、日本ではこの楊梅が桃と呼ばれていました。ただ、楊梅と書くように、梅の変種と考えていたのかもしれません。別の書き方では、山桜桃、火実とも表されますが、その実は火のように紅いことに由来しているようです。

 京の通りのわらべ歌「まるたけえびすに にしおいけ あねさんろっかく たこにしき しあやぶったか まつまんごじょう」の次に「せったちゃらちゃら うおのたな」とつづきますが、「せった」というのは、楊梅通界隈が別名「雪駄屋町」と呼ばれ、「ちゃらちゃら」とは、鍵屋町通と的場通が、おそらく鍵や銭に関係することから、それらが触れ合う金属音を「ちゃらちゃら」と表し、「うおのたな」とは魚屋が多かった六条通のことだと思われます。

 さて、この楊梅通から南に向かって、鍵屋通、的場通の細い道が東西に並行して走っているのですが、この3つの通りを総称して「六条三筋町(みすじまち)」と呼ばれていました。この三筋町界隈には、かつて遊郭が置かれていたのです。今、遊郭があった面影は残っていませんが、たしかにこの六条三筋町に遊郭があり、それは二条柳町から慶長7年(1602)に移転してきたものでした。詳しくは本文でご案内するとして、今回はこの六条三筋町の楊梅通を中心に、烏丸通の2筋東の東洞院通から歩き始めたいと思います。

 楊梅通は東洞院から西に向かって、烏丸、室町、新町、西洞院、醒ヶ井、そして堀川通まで東西に延びる約1キロに満たない短い道で、住宅が建ち並ぶ静かな町ですが、かつて華やかな賑わいをみせたその残香がどこかに残っているようにも思えます。学校などもありますから、遊郭があった案内板などは建てられていませんが、平安の都京都の歴史の一翼を担った粋なエリアであり、井原西鶴や近松門左衛門の物語にも登場します。また、明の国(現在の中国)にまでその美貌が届いたといわれる二代目吉野太夫(よしのたゆう)がいた場所としても有名です。

 そんな楊梅通、東洞院通を起点に歩き出しましょう。この地点へ行くには、京都市営地下鉄「五条駅」を南東角で地上に出て、五条東洞院を少し下ったところになります。

消えた六条三筋町
消えた六条三筋町

消えた六条三筋町

 広い五条通の東洞院を下ル(南下)と、一筋目が楊梅通、二筋目が鍵屋町通、三筋目が的場通で、さらに南下すると六条通です。楊梅、鍵屋、的場の3つの通りを六条三筋町と呼んでいて、東洞院鍵屋町通の角には甘味処のお店があります。ここで和菓子を買って、途中でいただくのもいいでしょうね。

 楊梅通は住宅などが建つ東行きの一方通行の細い道で、さほど車の量も多くないのでゆっくりと歩くことができます。途中、風情のある木造建築の建物があったり、南北の通りとの交差点からは、東本願寺の屋根越しに京都タワーが遠望できたりします。

 時間があれば、楊梅通から鍵屋町通、的場通界隈をぐるぐると歩き回ってみるのも一興です。この界隈に遊郭があったというのが信じられない閑静な住宅地であり、小さな商いをする店舗などが並んでいます。

 この界隈は1600年前後、平安京の南の端であり、広い土地が広がるばかりでした。豊臣秀吉が家臣の原三郎左衛門に二条柳町に遊郭を開くのを許可したのが天正17年(1589)のことで、二条柳町は上京と下京の間にある空閑地でした。柳の並木があったことから柳町と呼ばれ、やがて遊郭には柳の木が象徴的なものとなったともいわれています。しかし、秀吉が亡くなり徳川家が興隆してくる時代になると、御所の近くに遊郭があるのは具合が悪いとか、秀吉の正室ねね(北政所)が高台寺に入る前に柳馬場丸太町辺りに居を構えたためなどの理由で、移転することになります。その移転先が六条三筋町であったわけです。

洛中風俗図屏風のなかの六条三筋町

洛中風俗図屏風のなかの六条三筋町

 この六条三筋町は、当時「上の町」「中の町」「下の町」と呼ばれていて、それぞれ現在の楊梅通、鍵屋通、的場通のことを指していたようです。東京国立博物館のデータベースに『洛中風俗図屏風(舟木本)』があり、閲覧することができます。画面左の下部に六条三筋町の図があり、町の情景が生き生きと描かれています。遊女が武士を誘って袖を引く姿や、群れをなして踊る女たちとそれを眺めている男たち、犬に吠えたてられている女、男が女を後ろから抱きしめている様子など、見ているだけで飽きません。こうした、遊興の町にたむろする昔の人びとの何とハツラツとしたことか、と感動します。ぜひ一度、下記のアドレスを検索してみてください。

東京国立博物館

 烏丸通を越えると、今西軒という、おはぎがとても美味しい和菓子店があります。取材にでかけたときは、すでに完売状態でした。午前中に行くと買い求められそうです。

仁丹琺瑯看板が並ぶ町
仁丹琺瑯看板が並ぶ町

仁丹琺瑯看板が並ぶ町

 この界隈を歩いているとよく目に飛び込んでくるのが仁丹の琺瑯看板の住所表示板です。この懐かしい看板は、「関西歴史紀行」でも幾度かご案内していますが、楊梅通には保存状態もよく残っています。手書きの風情のある琺瑯看板は、今やほぼ京都にしか残っていないようですが(一部、奈良などにもあるそうです)京都の町名が○○丁目といった行政区分の表記ではなく、あくまで通りを基準に上ル下ル、西入ル東入ルという、上下左右、東西南北の地理的な考えをもとに造られていることが独特ですね。

 平成の大合併により、日本各地で古くからの地名が消えていきました。京都でも、平安京の時代から応仁の乱など、歴史的な事件によって消滅した地名、建造物などがあったとは思いますが、古くからの人びとが大切にしてきた地名を、新たに京都にやってきた人たちが受け継ぎ、行政がそれを保護しているという姿勢は素晴らしいものです。古都だから、というのではなく、平安京の昔から歴々と受け継がれてきた、地名とその言霊に対する敬意がそうさせているのでしょう。

 仁丹琺瑯看板の愛好家で作る「京都仁丹學會」のホームページによれば、現在確認されている住所表示の琺瑯看板数は約670枚だということです。京都を散策しながらこの看板を探すのも楽しそうです。

京都仁丹學會

時計台のある中学校
時計台のある中学校

時計台のある中学校

 楊梅通は、江戸時代には遊郭のある町として栄えますが、徳川三代将軍家光の世になると、東本願寺の門前町であり、多くの町人たちの家が建て込んできたこともありふたたび移転することになります。寛永18年(1641)のことで、移転は急遽決まったらしく、その模様が「島原の乱」のような騒動であったことから、新たな花街の名は「島原」と名付けられたという説があります。六条三筋町に遊郭が存在したのは約40年の歳月でした。

 その後、楊梅通界隈は町人衆や商人が暮らす地域となり、雪駄を扱う店が多く軒を連ねたことから「雪駄屋町(せったやまち/せきだやまち)と呼ばれるようになります。京の通りのわらべ歌に「せったちゃらちゃら」とあるとおり、六条三筋町という呼称は消えてしまったようです。

 そして、明治の代になり首都が東京に移ってしまうと、京都の人びとは新しい京都を構築しよう!と、新しい試みに取り組みます。琵琶湖疎水や発電所の建設、その電力による路面電車の敷設などが有名ですが、もう一つ、力を注いだのが学校教育の充実でした。

 現在、学校とは思えない瀟洒な建物が建つ京都市立下京中学校。その歴史が鍵屋町通沿いの石板に刻まれています。それによれば、明治二年に下京第十六番組小学校が設置されると、明治5年には下京第二十四番組小学校が、明治8年には新楊小学校、明治10年に尚徳小学校と次々と教育の場が造られますが、平成十九年に5つの中学校が統合されて、下京中学校となります。5校はそれぞれ、郁文、成徳、尚徳、皆山、梅逕という名の中学校でしたが、いずれも非常にいい名前で、これらの校名が消えてしまうのは残念ですね。

 下京中学校の楊梅通沿いには時計台があり、鍵屋町通沿いに回って、石板とともに「明治天皇行幸の碑」を眺めるのもいいでしょう。

三筋をぐるりと歩き回って……

三筋をぐるりと歩き回って……

 鍵屋町通と的場通は、新町通で行き止まりになっています。おそらく、遊郭が造られたときに新たに開かれた通りであったことから、区分をするために新町通から西へは通さなかったのだろうと想像できます。

 楊梅通だけは堀川通まで伸びています。界隈には神社や寺院はさほど多くなく、あくまで町衆や商人が暮らす住宅地であり、東本願寺の門徒たちが集まっていたため、小さな寺社は必要がなかったのかもしれません。ただ、烏丸通と室町通の間にある諏訪町通の鍵屋町通と的場通の中間地点に「尚徳諏訪神社」という小さな社があり、「関西歴史紀行」の「両替町通」篇でご案内しています。

 延暦20年(801)建立ということですから、平安京が建都されてまもなくのことで、蝦夷平定から帰洛した坂上田村麻呂が社殿を建て、諏訪大明神(信濃長野)の分霊を勧請したのが由来です。この「尚徳諏訪神社」は地域の人たちが護っている社で、いつ訪れても清潔な境内で、すがすがしい気持ちになります。

尚徳諏訪神社

〒600-8163
京都市下京区諏訪町通五条下ル(諏訪町351)
吉野太夫を思いながら……

吉野太夫を思いながら……

 そして、楊梅通は堀川通に突き当たり、通りの役割を終えます。新町通まで引き返し、鍵屋町通か的場通り、あるいは六条通を東に向かって歩いてみるのもおススメです。

 最後に、六条三筋町の遊郭で最も名を馳せた吉野太夫のことを思いながら、烏丸通へ戻っていきましょう。

 吉野太夫は本名を松田徳子といい、慶長11年(1606)から寛永20年(1643)までの38年の生涯を送った女性で、秀吉ゆかりの方広寺の近くで、西国武士を父に生まれたといわれています。

 幼い頃に遊女の世話をする禿(かむろ)として働きはじめ、14歳のときに太夫となります。和歌や連歌、俳諧に秀でていて、書、茶、香、華などの道にも明るく、しかも絶世の美貌であったことからたちまち人気を集めます。江戸吉原の高尾太夫、大坂新町の夕霧太夫とともに寛永の三名妓と謳われます。

 吉野太夫についてはさまざまな逸話が残されています。

 彼女を身請けした京の豪商である灰屋紹益は、一族からその身請けを非難されます。しかし、吉野の人柄を聞いた一族は和解しようと吉野を招いて会することになります。天下の名妓に会うのだからと着物を新調し、念入りに化粧を施して会する場に赴きますが、いつまで経っても吉野が現れません。しびれを切らして台所に行くと、そこに「しほれたる肌着のうへに藍染の木綿の袷をかさね、黒き帯を押しごきて高くしたる」という姿の吉野太夫を発見します。彼女は遠慮して、一族の前に出るのを憚っていたのです。

 そのけなげな姿に感心した灰屋の一族は吉野太夫を受け入れることとなったのです。吉野が藍染めの木綿を身に纏っていたということには、隠された意味があります。なぜなら、豪商・灰屋紹益の生業は、藍染めのために用いる灰を扱うもので、それによって巨万の富を得た商家であったからです。吉野はそのことを考えて藍染木綿の重ねを身に着けていたのか、そこまで考えずにただあり合わせで着用していたのかは分かりませんが、豪商一門に受け入れられたのは幸福であったと思います。

 また、吉野が身請けされる以前の逸話として、ある刀鍛冶の若者が道行く吉野太夫に一目惚れし、懸命に仕事に励んで金を貯め、吉野を尋ねたものの、「格が違う」と門前払いされます。それを耳にした吉野はその若者を迎え入れ、願いを果たしてやります。その若者は感動のあまり、「思い残すことはなにもない」と川に身投げしてしまったそうです。

 現在の価値観から考えると、吉野がその若者に慈悲をかけたことで、失わなくてもいい生命ではなかったのか……と思いますが、江戸期の人生観とはそういうものだったのか、どこか儚さを感じさせます。

 そんなことを思いながら烏丸通まで戻ってきました。赤い浴衣を着た若い女性たちが歩いています。この界隈で昔あった出来事など知る由もないと思いますが、京都は一日にして成らず。さまざまな物語、悲喜劇の上を私たちは歩いているのですね。



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

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