一日散策 関西歴史紀行 【木屋町通~先斗町 Kiyamachi-Pontocho】

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京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN09 木屋町通~先斗町 Kiyamachi-Pontocho

PLAN09 木屋町通~先斗町 Kiyamachi-Pontocho
PLAN09 木屋町通~先斗町 Kiyamachi-Pontocho
PLAN09 木屋町通~先斗町 Kiyamachi-Pontocho
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 京都有数の繁華街としてしられる木屋町通。高瀬川沿いに、北は二条通から、南は七条通までの約3キロの通りです。造られたのは慶長年間(1596~1615)、角倉了以(すみのくらりょうい)が高瀬川を開削したことにより、さまざまな物資の集積場となったことが始まりです。物資の中でも薪炭や木材が多かったことから、通りには材木商が軒を連ね、当初は「樵木町通(こりきちょう‐どおり)」と呼ばれていましたが、やがて木屋町に変化し定着しました。
江戸時代中頃になると、三条通を行き交う旅人や行商人のための旅籠や料理店が並び建つようになり、歓楽街へとその姿を変え、現在へ連なっていきます。

 通りに沿って流れる高瀬川は森鷗外の小説で有名です。高瀬川は開削されてから300年に渡り、京と大坂を結ぶ物資の大動脈として栄えましたが、小説『高瀬川』では、京で弟を殺めた罪人を大坂へ運ぶ京都奉行所の同心とのひとときの交流が描かれています。病弱な弟が自死するのを手助けした兄。それによって罪人となったいきさつを聞いた同心は、晴れ晴れとした顔つきの男を見て、果たして真実の罪人といえるかどうか考えます。「苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。」……この小説が書かれたのは大正5年(1916)のこと。現代の安楽死の問題につながるテーマが描かれています。

 木屋町通は、幕末の時期にも重要な場所でした。藩邸が築かれ、勤王の志士たちの密会の場として料理店などが使われて、尊王攘夷(天皇を尊び、外国勢を追い払う思想)佐幕(江戸幕府を補佐する思想)、公武合体(朝廷と幕府を一体化させて外国勢に立ち向かおうとする思想)など、さまざまな思想を持つ志士たちが相まみれ、辻斬りなどが横行しました。木屋町通でも多くの志士が斃れ、石碑が建てられています。今回はこの木屋町通と、さらに東側、鴨川との間に南北に延びる先斗町を紹介しながら歩いてみたいと思います。

高瀬川

四条木屋町を起点にスタート

 阪急の「河原町駅」を地上に出ると、四条通と木屋町通が交差する場所に出ます。ここを起点にして、北の方向へ歩き出しましょう。

 通りに沿って高瀬川が流れています。水深の浅い小川ですが、底が平らになった高瀬舟という小舟が行き交っていました。この四条通から二条通までの間には、荷積み荷下ろしのための「船入り」が9カ所作られ、大正9年頃(1920)までさかんに水運業がおこなわれていました。

高瀬川
本間精一郎

本間精一郎遭難地の石碑

 北へ上ると「本間精一郎遭難地」の石碑が建っています。文久2年(1862)、勤王(天皇の為に働こうとする考え)の志士であった本間精一郎がこの地で襲われた場所です。

 本間は越後(新潟県)出身で、江戸を経て安政の大獄の後、京都に居を移し、尊王攘夷を唱え回ります。しかし、土佐藩や薩摩藩の志士達からその勝気な性格を疎まれ、仲間内によって命を狙われます。幕末の四大人斬りといわれた薩摩藩の田中新兵衛と、土佐藩の岡田以蔵によって木屋町通と先斗町の間で挟まれ、激闘の末、斬られてしまいます(四大人斬り残りの二人は、熊本藩出身の河上彦斎、薩摩藩出身の中村半次郎)。

 今も石碑の背後の建物には、岡田以蔵の刀痕が残されているとか。精一郎は明治の世になり、幕末に活躍した有能人物として官位を授けられ、名誉を回復しています。

本間精一郎
土佐藩邸跡石碑

土佐藩邸跡石碑から土佐稲荷へ

 高瀬川に沿う蛸薬師下ル下樵木町に「土佐藩邸跡」の石碑が建っています。旧・立誠小学校の敷地を含む一帯は、土佐藩邸がありました。

 この石碑から西の河原町通に進んだところには、岬神社という小さな社があり、別名、土佐稲荷とも呼ばれています。室町時代初期、鴨川の中洲の先端に建てられたことから「岬」と命名されたようです。

 江戸時代になると土佐藩京屋敷が建てられ、その敷地内に神社が移築されます。地域の篤い信仰の社であったことから、土佐藩では一般庶民でも自由に参詣できるよう、通路を確保したといわれています。

 祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と、石栄神(せきえいのかみ)で、農業、商業、土木などの繁栄と火難・災厄除けに御利益があります。

境内には坂本龍馬の像が建っていて、龍馬ファンには必見の場所です。

先斗町

先斗町の風情

 木屋町通と並行して、鴨川との間に狭い路地が南北に伸びています。先斗町(ぽんとちょう)です。元来は賀茂川の洲であり、江戸初期に護岸工事で埋め立てられてからは新河原町通と呼ばれ、歓楽街になりました。その後、舞妓や芸妓が行き交うようになり、花街となりました。

 鴨川向きに床が造られた料理屋が軒を連ね、歌舞練場では恒例の「鴨川をどり」が毎年5月に開かれています。

先斗町

 先斗町の名前の由来は、ポルトガル語のPonto(先)から採った説と、鴨川と高瀬川の間にあることから、二枚の皮(川)に挟まれた鼓(つづみ)の「ポン」と鳴る音に引っ掛けて「ぽんとちょう」となった説などがあります。

 夜ともなれば、風雅な灯りに石畳が映し出され、行き交う人と肩を交わしながら歩く情景に、京都らしい趣(おもむき)が醸し出されます。綺麗な着物姿の舞妓さんに出会うこともしばしば。散策の後、めぐってみてもいいかもしれませんね。

瑞泉寺

瑞泉寺(ずいせんじ)

 三条通の南に小さなお寺があります。慈舟山瑞泉寺です。ここは豊臣秀次とその一族の菩提を弔っています。

 豊臣秀吉の命により高野山で自害した秀次。秀吉は伏見で首実検し、その後三条河原にさらされました。その時、秀次の妻や子孫など多くの人たちが打ち首にされました。遺体は河原に埋められますが、その16年後、高瀬川を開削した角倉了以により石櫃が発見され、浄土宗西山派の僧・立空桂叔和尚(後の瑞泉寺の開山上人)と共に、この寺を建立します。

 秀吉が甥の秀次に切腹を命じた背景には諸説ありますが、悲劇の武将として名を残す豊臣秀次。そっと手を合わせたいものです。

瑞泉寺

〒604-8002
京都市中京区木屋町通り三条下ル石屋町114-1
佐久間象山・大村益次郎遭難の地

佐久間象山と大村益次郎遭難の地

 三条小橋の角に「佐久間象山先生遭難之碑」「大村益次郎郷遭難之碑」があります。ここからさらに北に上がったところ、一之船入町に石碑が建てられています。

 元治元年(1864)7月、この付近を馬で通り過ぎようとした佐久間象山が刺客に襲われます。象山といえば、吉田松陰をはじめ勝海舟や坂本龍馬に多大な思想的影響を与えた松代(現在の長野県)藩士。開国論及び公武合体政策を唱えていた象山に対し、攘夷派(外国勢を攻撃する考えの派)が仕掛けたもので、象山は即死であったといわれています。

佐久間象山・大村益次郎遭難の地

 また、象山事件から5年後の明治2年(1869)9月、この近くにあった旅籠二階奥座敷で大村益次郎が襲われます。長州出身で、緒方洪庵に医学を学び、西洋兵法を学んだ益次郎は、急速な変革に異を唱える士族の不満が原因で襲われます。一命はとりとめたものの、大坂で亡くなります。享年46。 司馬遼太郎の小説『花神』が益次郎の生涯を描き出しています。

津製作所 創業記念資料館

島津製作所 創業記念資料館

 明治維新により首府が東京に移され、京都は衰退の危機に見舞われます。そこで西洋の最新技術を導入した産業施設設立の動きが巻き起こります。

 仏具製造業を営んでいた島津源蔵(しまづ げんぞう)は、理化学の知識と技術を深め、明治8年(1875)に教育用理化学器械の製造を始めます。島津製作所の原点です。源蔵は苦心の末、西洋技術で得たものを日本独自の科学技術に応用し、多くの医療用産業用器械などの製造に成功します。そして長男の二代目源蔵にその志は受け継がれていきます。

 例えば、蓄電池の開発では、私たちに馴染み深い「GSバッテリー」。この「GS」とは、開発者である二代目島津源蔵のイニシャルから命名されたものです。また、医療用人体模型の開発では、その後、ファッション用のマネキン製造技術へと転用されていきます。京都にマネキン製造業が盛んなのも、元をただせば島津の人体模型から始まったことなのです。

 資料館内には、こうした島津製作所の歩みが、多くの製造物と共に展示されています。明治大正時代に製造されたさまざまな器具や機械には、精巧さだけでなく、芸術的な美も感じ取ることができます。ぜひ、見学してみてください。

島津製作所 創業記念資料館

〒604-0921
京都市中京区木屋町二条南
075-255-0980
午前9時30分~午後5時
水曜日(祝日の場合は開館)年始年末
大人300円/中高生200円(団体~20名以上は2割引き・案内可・要予約)
https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/
御所飴本舗
御所飴本舗御所飴本舗

散策のお土産は「御所飴」を……

 三条通まで戻り、京阪電車の「三条駅」に向かう途中、三条大橋西詰にかわいい飴屋さんがあります。「御所飴本舗」です。

 御所飴は、厳選された砂糖と水飴を使用し、高温で炊き上げるという昔ながらの手法で、あっさりとあと口のよい飴に仕上げられています。かまどを使用し、高温の釜を扱うため、夏場は非常に厳しい作業になるそうです。しかし、お客様の「おいしい」の一言に励まされて今日まで続けておられます。

「京のお飴さん」として親しまれた御所飴には、古都京都の移ろいゆく季節の情景を投影しているかのような味わいがあります。ぜひ、京都散策のお土産に買い求めたいものですね。

御所飴本舗

〒604-8004
京都市中京区三条河原町東入ル中島町98
075-213-3800
午前11時~午後9時 
不定休

駐輪場なし

http://www.goshoame.co.jp/
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