一日散策 関西歴史紀行 【両替町通 Ryogaemachi】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN25 両替町通 Ryogaemachi

両替町通 Ryogaemachi
両替町通 Ryogaemachi
両替町通 Ryogaemachi
両替町通 Ryogaemachi両替町通 Ryogaemachi

 京都御苑の西に延びる烏丸通。京都のメインストリートです。その一本西側、丸太町通から南に向かって狭い通りが伸びています。「両替町通」です。両替町というくらいですから、かつては金融関係の店が軒を連ねていた通りで、銀座や金座が設けられました。両替町通は、伏見にも同じ名前の通りがあります。また、静岡市にも「両替町」の地名があり、ここは徳川家康の駿府城下の銀貨鋳造所、いわゆる銀座が置かれたことに由来しています。現在は静岡最大の繁華街となっています。

 通りは豊臣秀吉の「天正の地割」の際に通された道で、平安京建都の際には存在していませんでした。丸太町通から三条通までの比較的短い通りで、三条以南は一旦途切れ、高辻通から「諏訪町通」となって東本願寺の北側、花屋町通まで続いています。
今回は、北の丸太町通から両替町通を下り、室町通を経て諏訪町通を歩き、東本願寺北側の花屋町通まで歩いてみましょう。

 さて、銀座といえば東京の華やかな街を思い出しますが、銀座の名の由来は諸説あるなか、大阪の堺市や、京都の伏見、静岡などが古くから存在していました。そして現在は、日本全国各地に「銀座」と名のつく場所、商店街なども含めて500カ所以上が存在しています。これらの「銀座」は、やはり東京の銀座にあやかった、繁華街としてにぎわうことを願って名づけられたものです。

 両替町通には、まず「金座」が慶長5年(1600)に徳川家康よって設けられました。その後、家康が天下を取った後の慶長13年(1608)、伏見にあった「銀座」が「金座」の南に移設してきました。これら「金座・銀座」は、金銀といった稀少金属を鉛と混ぜ合わせて合金にし、さらに鉛を溶かすことで金銀だけを取り出し、金は大判の貨幣にし、銀は丁銀や小玉銀など、質と量で計る秤量貨幣(しょうりょうかへい)として使われました。産地によって、東日本では金が、西日本では銀が流通することが多かったといわれています。

 両替町は、こうした金銀の目方を図る南鐐替(なんりょうがえ)、量目替、両目替(りょうめがえ)と呼ばれたことから、「両替町」と名付けられました。ちなみに堺市が銀座の由来であるのは、堺には銀細工の職人が多く、銀貨を製造したことにあるといわれています。

 現在、京都の金融街は一本東の烏丸通に移っていますが、古くから金銀を扱っていたこの両替町通を訪ねることで、財運が上がるかもしれませんね。

京都市営地下鉄「丸太町駅」から

京都市営地下鉄「丸太町駅」から

 起点となるのは京都市営地下鉄「丸太町駅」。JR京都駅からも阪急烏丸駅からも乗車できます。

 2番出入り口の階段を上って地上に出ると、すぐ横にレトロな雰囲気の洋館が見えます。「大丸ヴィラ」です。その名からもわかるように、大丸百貨店の店主である下村家の屋敷として昭和5年(1930)に建てられたもので、設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)。1905年に滋賀県立商業高校の英語教師としてアメリカから来日したヴォーリズは、その後多くの洋館を日本各地に建てた人物です。キリスト教会をはじめ、大学や個人宅などを設計。昭和16年には日本へ帰化しました。滋賀県の近江八幡を拠点としたことから、「青い目の近江商人」などと呼ばれました。

 「大丸ヴィラ」は、イギリスのチューダー様式の建築物であることから、「中道軒(ちゅうどうけん)」という和名で呼ばれたそうです。残念ながら非公開なので、通りから眺めるだけにとどめましょう。

京都市営地下鉄「丸太町駅」から
両替町通を南へ歩く
両替町通を南へ歩く両替町通を南へ歩く

両替町通を南へ歩く

 両替町通を歩いていくと、風雅な能楽堂や古くからの町家が新しい建物と共存するように軒を連ねています。両替商はもう姿を消していますが、古い町並みは健在です。車の通りもさほど多くないのでゆったりと歩を進めることができます。

 押小路通を越えると、「徳川時代 金座遺址」の石碑に出会います。
 江戸幕府の金貨である小判や一分判などが鋳造されていた場所で、幕府御用達商人筆頭の後藤庄三郎が金座の御用改係を務め、役所が置かれていました。明治元年(1986)に廃止されています。

 「金座」石碑から少し行くと、「二条殿址」の石碑があります。南北朝時代の公卿(くぎょう)で、歌人としても名高い二条良基(にじょう よしもと)の邸宅があった地で、押小路殿とも呼ばれていました。屋敷内には龍躍池(りゅうやくち)という美しい池があり、織田信長もこの屋敷を気に入り、住んだといわれています。そして、本能寺の変(1573)では、信長の長男信忠がこの地で自害し、二条殿は炎上したと伝えられています。

 そして、すぐ南には「銀座遺址」の石碑が並んでいます。徳川家康の命により、慶長13年(1608)に伏見からこの地へ移転してきたもので、銀貨の丁銀や小玉銀などを鋳造していました。金座と同じく、明治元年には廃止されています。これら3つの石碑は、旧龍池小学校前に並んでいます。

金座・二条殿・銀座石碑

〒604-0845
中京区両替町通御池上る東側(旧龍池小学校前)
 
三条通から室町通へ

三条通から室町通へ

 広い御池通を越えて、三条通まで来ると両替町通は終点となります。三条通に面して、「文椿(ふみつばき)ビルヂング」という瀟洒でレトロ感あふれるビルがあり、お洒落なテナントが入っています。

 文椿ビルヂングは大正9年に建てられた木造建築の洋館です。当初は貿易会社が、やがて繊維問屋となり、終戦後はアメリカの文化施設でもあったそうです。その後、変遷を経て現在の姿に落ち着いています。存在感を放っていて、思わず足を踏み入れたくなります。

文椿ビルヂング

〒604-8166
京都市中京区三条通烏丸西入る御倉町79
 
三条通から室町通へ

 さて、両替町通から諏訪町通へ行くには、一本西の室町通を南へ下っていきましょう。

 にぎやかな四条通を少し上ったところに、室町時代後期の茶人である武野紹鴎(たけの じょうおう/1502~55)が24歳から36歳まで居住した跡「大黒庵武野紹鴎邸址」の石碑が建っています。紹鴎は、室町後期の茶人で大黒庵 一閑と号しました。


 紹鴎は四畳半の侘茶を簡略化し、村田珠光から千利休へと連なる茶道の原型を作った人物。この附近には「菊水之井」という名水が湧き出ていました。菊水之井の所以は、能楽「菊慈童(きくじどう)」の「菊の葉からは霊薬の水が滴り、不老長寿の薬となって国土を潤おす」という故事にあるといわれ、祇園祭の「菊水鉾」もこの井戸に因んでいます。

〒604-8166
京都市中京区室町通四条上る東側付近
 
三条通から室町通へ

 室町通をさらに下り、仏光寺通を少し左へ曲がったところに、「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の石碑と案内板があります。蕪村(1716~84)は摂津国東成郡毛馬村(けまむら/現在の大阪市都島区毛馬町)出身の俳人で、日本各地を転々とした後、42歳で京都のこの地に落ち着き、生涯ここで暮らしました。

 「春の海 終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」「菜の花や月は東に日は西に」など、写実的で絵画を思わすような作風は、江戸俳諧の中興の祖と称されています。俳画の祖でもあります。この前に立つとふと一句、作句してみたくなりますね。

〒604-8204
京都市下京区仏光寺通烏丸西入南側付近
諏訪町通へ

諏訪町通へ

 高辻通から諏訪町通が始まります。東本願寺の北門前の花屋町通までの約800m弱の短い通りです。諏訪町通と書いて、「すわんちょうどおり」と読むところが京都らしいというか、呼びやすい言い方なのでしょうね。

 諏訪町の地名は、通りの途中にある「尚徳諏訪神社(しょうとくすわじんじゃ)」が由来です。また、現在は跡形もありませんが、六条通あたりは「六条三筋町」と呼ばれる遊郭がありました。もともと、豊臣秀吉が認めた遊郭「二条柳町」を徳川家康が此の地に移したのですが、その後さらに移転して「島原(嶋原)」となり、花街として栄華を極めることになります。現在もお茶屋の「輪違屋」があり、観光名所となっています。「二条柳町」については、「柳馬場通篇」でご案内します。

諏訪町通へ

 松原通と交差するところに「新玉津嶋神社(にいたまつしまじんじゃ)」の小さな鳥居が見えます。脇に「北村季吟(きたむら きぎん)先生遺蹟」の石碑があります。

 北村季吟(1624~1705)は、江戸幕府の歌学方(かがくがた)となって江戸に行く元禄2年までこの地で過ごし、新玉津嶋神社の社司を務めました。歌学方とは和歌の研究をする学者のことで、季吟の7代末裔に、長野県の県歌として有名な「信濃の国」を作曲した北村季晴(すえはる)(1872~1930年)がいます。芸術的な才能豊かな一族なのでしょう。「♪~信濃の国は十州に境連ぬる国にして~♪」という歌い出しの長野県歌「信濃の国」は、長野県で生まれ育った者であれば大概の人が歌えるほどポピュラーです。

 新玉津嶋神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、小倉百人一首の編纂者である藤原定家の父の藤原俊成が、自分の屋敷内に和歌山和歌の浦の玉津嶋神社の歌の神様である「衣通朗姫(そとおりのいらつめ)」を勧請したことに由来します。

 これに先立つ寿永2年(1183)、俊成は後白河法皇より「千載和歌集(せんざいわかしゅう)」の編纂を始めますが、その当時、京に攻め入ってきた木曽義仲により平家は都落ちするものの、俊成門下の平氏である平忠度は京に舞い戻り、自分の歌を献じた話が残っています。歌への熱き思いが伝わる逸話ですね。和歌をいとおしむ人にとってぜひお参りしたい社です。

新玉津嶋神社

〒600-8427
京都市下京区烏丸通松原西入ル玉津島町309
 
諏訪町通へ

 諏訪町通を南へ下り、広い五条通を越えてしばらく行くと、木製の小さな鳥居を構えた「尚徳諏訪神社」が見えてきます。

 延暦20年(801)蝦夷平定より平安京に凱旋した坂上田村麻呂は、信仰する信州の諏訪大明神の神威により戦果を挙げたことへの御礼として、この付近に社殿を建て、諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりであるとされています。

諏訪町通へ

 時代を経ていくらか荒廃するものの、源義経、足利頼光、徳川幕府により復興されました。しかしながら、幕末の禁門の変(蛤御門の変)で社殿は焼け落ちます。そこに手を差し伸べたのが孝明天皇でした。慶応2年(1866)に社殿は見事に再建され、現在へと至っています。平安京遷都の時代から営々と続く古社。貴重な存在です。

尚徳諏訪神社

〒600-8163
京都市下京区下諏訪町351
 
東本願寺から京都駅へ
東本願寺から京都駅へ東本願寺から京都駅へ

東本願寺から京都駅へ

 尚徳諏訪神社を出て、諏訪町通を進むと東本願寺の北門が見えてきます。花屋町通に面し、ここで諏訪町通は終点となります。左折して、東本願寺の前を通り、京都タワーを目印にしてJR京都駅へ向かいます。

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