一日散策 関西歴史紀行 【柳馬場通 Yanagino-banba】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN26 柳馬場通 Yanagino-banba

柳馬場通 Yanagino-banba
柳馬場通 Yanagino-banba
柳馬場通 Yanagino-banba
柳馬場通 Yanagino-banba柳馬場通 Yanagino-banba

 柳馬場通(やなぎのばんばどおり)は、南は五条通から、北は丸太町通までの約2.3キロの道で、平安京造営の際は「万里小路(までのこうじ)」と呼ばれていました。「万里」と書いて「まで」と読むのはなぜなのか、調べてみても確たる理由が見つけられませんでしたが、藤原北家勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)の一家であり、鎌倉時代の公卿、参議吉田資経(すけつね)の四男の資通(すけみち)が万里小路家の祖であり、その頃から「までのこうじ」と称されていたようです。

 平安京造営当時、万里小路は南の九条通まで延びる道で、平安時代は多くの邸宅が並び、鎌倉時代には町家が軒を連ね、南北朝時代には足利家の屋敷が建てられ、さらに室町時代には畠山政長(はたけやま まさなが)の自邸があり、応仁の乱の際には東軍拠点の三宝院、西軍拠点の等持寺があったことから、一帯は戦火にまみれたともいわれています。やがて江戸時代になると豊臣秀吉造営の御土居や、角倉了以(すみのくら りょうい)と素庵(そあん)親子による高瀬川の開削などによって「河原町通」が開通し、万里小路の名が消滅したといわれています。

 柳馬場通の通り名がつけられたのは、豊臣秀吉によって二条通との交差点付近に日本初の公許の遊郭が作られ、柳の並木があったことで「柳」の文字が使われたこと。そして慶長9年(1604)、豊臣秀吉の7回忌に行われた豊国神社の臨時大祭の折、騎馬を集めて競う武家の行事馬揃(うまぞろえ)がこの地で開催されたことから、「柳」「馬場」が合成されて通り名となりました。

 二条柳町にあった遊郭はその後、六条三筋の六条柳町へ移転し、さらに朱雀野へ移り、花街「島原」となって栄華を極めます。現代でも芸者の世界を「花柳界」と呼ぶのは、二条柳町の「柳」に由来するといわれています。

 今回は、歴史の物語が数多く残る柳馬場通を京阪電車「清水五条駅」を起点にして歩いてみましょう。

扇塚から

扇塚から

 京阪の「清水五条駅」から五条大橋を渡った西北詰、橋のたもとに「扇塚」という木板と石板が緑地に囲まれて建てられています。もともとこの地には時宗の新善光寺があり、この寺で平敦盛(謡曲『敦盛』で有名)亡き後の室(妻)が得度し、蓮華院尼と名乗ります。そして寺僧と共に扇づくりをおこない、「御影堂扇(みえどうせん)」と呼ばれ人気を博します。やがて多くの扇職人がこの周辺に集まり、扇づくりの拠点となったそうです。日本発祥の扇は、今や西洋のセレブ達もスポーツ観戦の際の必需品になっているようですね。

扇塚

〒600-8017
京都府京都市東山区五条通り五条大橋西北詰附近
柳馬場通を北へ
柳馬場通を北へ

柳馬場通を北へ

 車が行き交う広い五条通の北側の歩道を西に進んでいくと、コンビニ「ローソン五条柳馬場店」があり、ここを越えてすぐに右折したところから柳馬場通は始まります。北行きの一方通行の狭い道で、それなりに車の交通量もあることから注意して歩きたいものです。

 有隣児童公園を越え、高辻通を上ルこの一帯は「万里小路町」と、旧名が残っています。交差する通りから西を眺めると、佛光寺の山門が遠望できます。手前には真宗佛光寺派の明顕寺や教音院などの寺院が建ち並ぶ寺町の風情が広がっています。

 さらに北へ進み、仏光寺通を越えると店頭にたくさんの提灯を並べた店が見えてきます。提灯の「提」という字は「手さげ」という意味で、江戸時代より前は、富裕層が祭礼などに使うものでしたが、江戸時代になってロウソクが量産されるようになると、町衆も利用する便利な照明器具となったそうです。
 余談ですが、提灯で思い浮かべるのが、東京浅草の「雷門」の大提灯。この提灯は、慶応元年(1865)に失われ、昭和35年(1960)になって松下幸之助氏が寄進したもので、現在の提灯は平成15年に京都山科で製作されたものです。

 やがてにぎやかなメインストリートの四条通と交差します。通りに沿って居酒屋やレストランなどが並び、多くの人が行き交う繁華街です。そして、京の台所「錦市場商店街」の看板が見えてきます。やはり、ここを通りかかったらにぎわうアーケードに足を踏み入れないわけにはいきませんね。

龍馬の妻・お龍の実家
龍馬の妻・お龍の実家龍馬の妻・お龍の実家

龍馬の妻・お龍の実家

 三条通までの間には町家風の食事処や商店が並んでいて、思わず立ち止まって店の様子を眺めてみたくなります。そんな魅力あふれる老舗が柳馬場通にはいくつもあり、新しい天体を発見するように、自分好みの場所を見つけてください。歩いているときっと出会うはずです。

 三条通の手前、右手(東側)に真新しい石碑があり、「この付近坂本龍馬妻 お龍の実家 楢崎家跡」と刻まれています。2008年10月に建てられたもので、お龍は青蓮院に仕える医師楢崎将作の長女として天保12年(1841)この近辺で生まれ、当地で育ったそうです。裕福な家庭でお嬢様として育ったお龍でしたが、父が没した後、家は困窮し、お龍は賄い婦として住み込み働きをします。そこで出会ったのが坂本龍馬でした。

 伏見の寺田屋で龍馬を救ったお龍の逸話は有名ですが、お嬢様でありながらも芯の強い、機転の利く女性だったのでしょうね。 

〒604-8111
京都市中京区柳馬場通三条下る東側付近
「マリベル京都本店」でガナッシュを……ニュ-ヨーク→京都
「マリベル京都本店」でガナッシュを……ニュ-ヨーク→京都

「マリベル京都本店」でガナッシュを……ニュ-ヨーク→京都

 ニューヨークで大人気を誇り、初めての日本でブランチ(支店)を出した「マリベル京都本店」。女性たちのみならず、男性諸氏も注目のチョコレートを中心としたおいしいガナッシュショップです。

 2000年、NYソーホ-で中米ホンジュラス出身のマリベル・リーバマンさんが創業。 京都本店は2012年4月にオープンしました。NY店にはヒラリー・クリントン女史やレディ・ガガさんが立ち寄り、アップル社の共同設立者のスティーブ・ジョブズ氏も訪れたそうです。

 アートガナッシュはすべてNYブルックリンの工場で製造され、日本へ送られてきます。すてきな表面のイラストはマリベルさんのご主人の手製のものであり、短いポエムが書き添えられています。

 たとえば、ガナッシュ「LE BASISER」はPASSION FRUIT味。少し酸味のあるピューレを練りこんだミルクチョコレートを、さらにダークチョコレートでやさしく包み込みこんだひと品です。
 ポエムはこんな言葉です。「幕があがる瞬間、劇場の重厚なカーテン越しに出会った二人。励まし合い、抱き合い、キス……そして幕が上がる!!!」。
とてもロマンチックで、女性ならみなさん舞い上がってしまいそうですね。

 また、カフェスペースでは、「I LOVE JAPAN」という丹波のあずき、抹茶、黒蜜をアレンジしたパンケーキや、濃厚なジェラート、カカオが65%も含まれたホットチョコレートを楽しむことができます。

 散策の途中、ぜひ立ち寄ってNY発のエキゾチックで、香ばしい味を愉しみたいものですね。

マリベル京都本店

〒604-8112
京都市中京区柳馬場三条下ル槌屋町83番地
075-221-2202
午前10時~午後7時
火曜日
http://www.mariebelle.jp/
京都市歴史資料館

バスケットボール発祥地・旧日本生命京都支店ビル

 三条通との交差点。この界隈は古くからにぎわいに満ちたエリアで、南東角に「京都バスケットボール発祥の地」の石碑があります。

 1915年、旧制京都一中(現在の京都府立洛北高校)の教師だった佐藤金一が京都YMCAにおいて、日本初となるバスケットボールチームを作ってから100年目の2015年に建てられたものです。バスケットボール自体は1908年にYMCAの体育教授であった大森兵蔵がアメリカから伝えたといわれています。本格的なチームが京都で結成されたのでしょう。

京都市歴史資料館
京都市中京区中之町付近(柳馬場通三条通交差点南東角)

 また、この交差点の北西角には、旧日本生命京都支店ビルが建っています。レンガ造りの二階建てで、明治45年に着工し大正3年に竣工しました。通りに面した塔屋というデザイン様式で、レトロでありながらもどこか未来的な意匠を感じます。三条通には多くの洋風近代建築物がありましたが、現在残り少なくなっていて、このビルも貴重な文化財です。

京都市中京区三条通柳馬場北西角

 三条通から姉小路通を過ぎ、鰻屋の角の路地の奥に「カフェ火裏蓮花」の入口が見えます。「姉小路通篇」でご紹介した、隠れ家のようなカフェです。

 それにしてもなんと魅力的な石畳の路地なんでしょう。京都を歩きながら心ときめくのは、ふと覗き込んだ小路や路地、辻子(ずし~図子、通子、厨子、途子などとも書く)が美しいことです。こんな細道が自分の暮らしている環境のなかにあればいいな…….という思いにとらわれます。

 京都の人は「路地」のことを「ろうじ」「ろーじ」といいます。京都ならではの表現で、大阪人(摂河泉圏内)が「うどん→うろん」、「見える→めえる」、「うごく→いごく」というのと、どこか違いますね。それぞれ風土が生み出す精神文化があるのでしょう。

親鸞終焉地と二条柳町界隈のこと

親鸞終焉地と二条柳町界隈のこと

 広い御池通を越えて、京都御苑の堺町御門に向かっていく途中、「おいけあした幼稚園」の前の敷地に、「見真大師遷化(けんしんだいしせんげ)旧跡」という石碑が建っています。見真大師とは浄土真宗の開祖である親鸞(1173~1262)の諡号(しごう/亡くなった後に奉る言葉)です。

 親鸞は現在の伏見区に承安3年(1173)に生まれ、9歳で得度。比叡山で修行した後、下山して六角堂で修行をおこなっていた際、夢に聖徳太子が現れてお告げをします。

 お告げに従って法然に入門し、研鑽を重ねて大きな評価を得ます。やがて仏教者としては異端ともいえる「妻帯」をし、4男3女を授かったといわれています。さらに、仏教の修行者は獣肉や魚を口にしないのが当然であった時代、親鸞はその禁も破ります。破戒僧と呼ばれてもおかしくないその行動は、信仰する庶民と同じように生きようとした親鸞の深い決意があったからかもしれません。

 ところが、法然と親鸞は、時の後鳥羽上皇の専修念仏停止(ちょうじ)の命により、流刑に処されます。承元の法難(じょうげんのほうなん)と呼ばれる事件です。越後に5年間流されていましたが、放免されてからは日本各地を遍歴して布教に励み、京都へ戻ってきたのは60歳を越えたときでした。落ち着いたのがこの地にあった善法房で、弘長2年(1262)にここで没します。

 その後、江戸時代になってここに法泉寺が建立されますが、市街地調整のため上京、左京と移転しました。現在はこの石碑によって、親鸞終焉の地を知らしめています。
欲を持つことを禁ずる僧侶であるのに、親鸞は妻帯し肉食するという型破りの僧でした。だが、布教に行けば農民と一緒に田んぼに入って働き、ともに歌い、笑う姿は、権威ある僧侶というより時代の寵児、今でいうなら人気俳優であったのかもしれませんね。

京都市中京区柳馬場通御池上る東側(京都御池創生館前)

 柳馬場通が二条通と交わる界隈にかつて「二条柳町」という遊郭があることは冒頭でご案内しましたが、現在この地には、ここが傾城町(けいせいまち/遊郭、遊里、色里)であった形跡は残っていません。

 「二条柳町」は、秀吉の馬の口取り(馬が暴れないよう押さえ込む仕事~かつて秀吉も織田信長の馬の口取りをしていた)の原三郎左衛門という者が秀吉に「洛中の遊里を1カ所に集めて傾城町を造りたい」と申し出て赦され、遊郭づくりの達人であった林又一郎と組んで作り上げました。日本で最も古い公認の遊郭でした。

 しかし、完成して13年後の慶長7年(1602)、六条三筋へ移動を命じられます。現在の東本願寺の北に位置しますが、慶長7年当時、東本願寺はまだ建立されておらず、浄土真宗の教如が徳川家康から広大な寺領を寄進された頃であったと思われます。

 移設の理由は諸説あり、「二条城創建のため、遊郭を遠ざける」という説のほかに、秀吉が皇室に仕える豊臣関白家の邸として京都御苑南に城郭風建築物(太閤御屋敷、京都新城)を建てる計画が立ち、秀吉は完成を見ることなく没してしまうものの、慶長4年頃に秀吉の正室北政所(通称ねね)が転居してくることとなり、「秀吉公の正室北政所の住まいの近くに遊郭があるのはいかがなものか」と考えた、という説もあります。北政所はその後、東山の高台寺に移り、高台院と名乗ります。

 いずれにしても、二条柳町から六条三筋へ遊郭は移設され、さらに六条三筋から朱雀野の島原に移転します。この際の移設は、あまりに慌てた引っ越しであったことから、その前に起こった「島原の乱」に引っかけて、「島原、嶋原」と呼ばれることになる説、朱雀野の地が「島」のようであった説、「島原の乱」に出陣した兵たちが造営工事を請け負ったからなど、諸説あるようです。
現在は、置屋の「輪違屋」や揚屋「角屋」(現在は「角屋もてなしの文化美術館」)として残っています。

 そして、柳馬場通二条通交差周辺には、遊郭跡の石碑などは見当たりません。負の遺産ではないと思いますが、遠い昔に存在した庶民の享楽の痕跡を、1本の柳の木で残しておくくらいの粋(すい)な感覚があってもいいとは思います。

丸太町通、そして京都御苑へ

丸太町通、そして京都御苑へ

 やがて通りの向こうに京都御苑の緑の森が見えてきます。右手の大きな建物は京都地方裁判所。この周囲には弁護士や法律関係の事務所がたくさん集まっています。

 丸太町通の信号を越えて、堺町御門から御苑内に。西へ進めば京都市営地下鉄「丸太町駅」に、東へ歩けば京阪電車「神宮丸太町駅」です。

関西城紀行TOPにっぽん紀行TOP
《 広告に関するお問い合わせはこちら 》
株式会社日豊社
〒530-0044 大阪市北区東天満1丁目12番13号 IAG天満ビル
TEL 06-6357-3355 FAX 06-6357-3406

PAGEトップへ