一日散策 関西歴史紀行 【蛸薬師通 Takoyakushi】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN01 蛸薬師通 Takoyakushi

蛸薬師通 Takoyakushi
蛸薬師通 Takoyakushi
蛸薬師通 Takoyakushi
蛸薬師通 Takoyakushi蛸薬師通 Takoyakushi

 “♪~丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦~♪”ご存知、京都の通り名のわらべ唄ですが、最初から、丸太町→竹屋町→夷川→二条→押小路→御池→姉小路→三条→六角の次に「蛸」という名が登場します。「たこ」という音の響きが独特なアクセントとなって、このわらべ唄の楽しさが増しているように思えますね。「~たこにしき~」というのも滑稽ですね。

 「蛸」とは、蛸薬師通を指す言葉ですが、「薬師」という「蛸」とは通常結びつかない仏さまの名が合体していることに、さらなる面白さを感じます。もっとも「蛸薬師」の名は日本全国各地に見られます。「蛸」の吸盤が「吸出し」の効力を持つと考え、疣(いぼ)やおでき(吹き出物)の治癒に役立つことや、蛸が真黒な墨を吐くことから暗がりでも目が見えることから眼の病に効果があると昔人は考え、衆生の疫病に医薬をもたらす薬師如来と結びつきました。

 京都の「蛸薬師」は、新京極通にある永福寺の薬師如来様と結びついたもので、そこにはこんな伝説が語り継がれています。

 鎌倉時代の建長年間(1249-1256年)、永福寺に善光という僧がいて、彼の母親が病に罹ります。長患いでなかなか元気にならない母君は、「幼い頃、病になるとよく蛸を食べた」と、ふと洩らしてしまいます。善光は僧であり殺生はできません。しかし大事な母のためと市場に蛸を買い求めたところ、周囲の人々が騒ぎ、「なぜ僧なのに生き物を買うのや?」と善光に問いただしたところ、「この蛸は母の病のためのものでございます。どうかお許しを」と、蛸を入れた木箱を開けたところ、8本足の蛸は、八巻の経典となりまばゆい光を放ちました。驚いた人々が「南無薬師瑠璃光如来~」と手を合わせたところ経典は蛸の姿に戻り、寺の門前にあった池に飛び込んで瑠璃色の光を放ち、善光の母君を照らしました。すると母君の病は見事に消え失せたそうです。以来、永福寺の薬師如来様は「蛸薬師」と呼びならわされたというのです。
 別説として、寺の池のことを「澤(たく)薬師」と呼ばれていたものが、「たく→たこ」に転訛したというのもあります。由来の真相はともかく、母想いの僧の逸話には心惹かれますね。

 いずれにしても、実にユニークな名前の通りである「蛸薬師通」を起点となる先斗町から歩きだしましょう。

祇園四条駅から先斗町、木屋町、河原町、そして新京極へ
祇園四条駅から先斗町、木屋町、河原町、そして新京極へ

祇園四条駅から先斗町、木屋町、河原町、そして新京極へ

 歩き出しの始点は、京阪電車の「祇園四条駅」です。鴨川の東岸、八坂神社へ続く四条通に面していて、四条大橋を渡って西へ進みます。橋を渡ってすぐのところに「先斗町通」の狭い路地があります。ここは、「関西歴史紀行:木屋町通~先斗町」篇でご案内していますので、ご参考にされてください。

 先斗町から木屋町通に抜け、高瀬川「七之舟入址」の石碑が建っているところが「蛸薬師通」の始点となります。「土佐藩邸跡」や坂本龍馬の像が建つ「土佐稲荷 岬神社」が通り沿いにあります。そして、にぎやかな河原町通を越えて、新京極の看板が見える道を進んでいきましょう。

 多くの観光客、修学旅行の生徒たちでにぎわう新京極商店街。その一角、三条通の南に「永福寺 蛸薬師堂」があります。たくさんの赤い地に白文字で描かれた幟が立ち並び、いつも多くの参詣者でにぎわっています。お参りしてから、歩きだしましょう。

七之舟入址石碑、土佐藩邸跡石碑

〒604-8002
京都市中京区木屋町通

土佐稲荷 岬神社

〒604-8023
京都市中京区備前島町 137

蛸薬師堂 永福寺

〒 604-0021
京都市中京区新京極蛸薬師東側町503
蛸薬師通沿いの風景
蛸薬師通沿いの風景

蛸薬師通沿いの風景

 寺町通を越えると、蛸薬師通は商店や会社が軒を連ねる通りになります。そうした中に、小さなレストランや雑貨店、老舗店があり、いずれも隠れた名店として人気を集めています。観光客よりも地元の人たちが通う店が多く、そうした中からいいお店を見つける愉しみもありますね。

 烏丸通まで来ると、西南角になつかしい赤レンガ造りの建物が見えます。大正5年(1916)に日本銀行本店や東京駅、大阪中央公会堂の設計者として有名な辰野金吾と、明治大正昭和と大阪で活躍した建築家で大阪商工会議所会頭を務めた建築家・片岡安(かたおか やすし/1876-1946)の共同事務所が設計した「旧山口銀行京都支店」です。その後「北國銀行京都支店」となり、現在はカフェなどの複合施設となっています。京都の金融街・烏丸通にふさわしい建築物です。

 西に向かって歩いていくと、通りの片隅に「此付近南蛮寺(なんばんじ)跡」という石碑が建っています。織田信長の時代、イエズス会(耶蘇会)によってキリスト教の拠点となった「南蛮寺」がこの付近に建てられました。信長はキリスト教を保護し、宣教師たちは日本国内での布教をおこないました。この時、洗礼を受けた大名も多く、大友宗麟(洗礼名以下同じ ドン・フランシスコ)、小西行長(アウグスティヌス)、黒田孝高(シメオン)、高山右近(ジュスト)、蒲生氏郷(レオン)などがいました。こうした大名に加え、商人や領民にもキリスト教の信者になるものがいて、30万人を超えたといわれています。

 信長がキリスト教を弾圧しなかったのは、信長自身が信者ではなく、おそらく武器などの輸入に宣教師たちを利用したからで、後に豊臣秀吉がキリスト教を弾圧した「バテレン追放令」は、長崎の街がキリスト教化していたことや、日本人を奴隷として海外に売買した点、さらに宣教師と交わした約束(軍艦を用意するといった内容といわれている)を宣教師たちが守らなかったことへの恫喝であったといわれています。秀吉は、宣教師たちがもたらす西洋の技術には大きな魅力を感じていましたし、バテレンを追放するだけで輸入に関しては継続していたようです。

 日本で初めてキリスト教会が造られたのは、天文20年(1551)にフランシスコ・ザビエルが周防の大名である大内義隆(おおうち よしたか)から譲り受けた廃寺の大道寺(山口県山口市)を改装したもので、その後、大友宗麟がザビエルを招いて建てたデウス堂(大分市)や、長崎平戸の天門寺などが建てられました。京都の南蛮寺もその流れで建設されたもので、永禄4年(1561)に礼拝堂が建てられ、その後天正4年(1576)に改修工事がおこなわれ、美しい姿を見せたそうです。

 しかし、信長が本能寺の変で斃れた後に天下人となった豊臣秀吉は天正15年(1587)6月に宣教師追放令を出し、キリスト教を弾圧。南蛮寺もその際に破壊されました。

 果たしてどんな建物で、内部はどのようなものであったのでしょうか。狩野宗秀(かのう そうしゅう/1551~1601)が描いた扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」から推測すると、木造瓦葺き3層建、入母屋造と寄棟造の屋根を持ち、2層部には見渡し用の欄付きの廻縁のようなものがあったとか。まるで小さなお城です。内部は、ルイス・フロイス(ポルトガルの宣教師。イエズス会の日本での活動記録『日本史』は歴史書として価値が高い/1532~1597)の故国へ宛てた手紙から類推すると、「キリシタンとなった裕福な女性が百畳の畳を寄進した」という記述があることから、建物内部は仏教寺院にように和風空間が広がっていたと考えられます。西洋のキリスト教会にある、祭壇や身廊なども設けられていたのでしょうか。
 さて、ここから少し西に進むと、「本能寺址」の石碑があります。

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀によって攻められた「本能寺の変」の現場です。現在、本能寺は寺町通の御池を下ったところにありますが、これは本能寺の変の後、秀吉によって移されたもので、本来「本能寺」はここ蛸薬師通と小川通の交わるあたりにありました。石垣や堀などを備えた砦のようなものだったといわれています。
しかし、奇襲をかけてきた明智光秀勢は13000もの大軍勢。一方織田勢は、備中高松城を攻めている豊臣秀吉を応援するための上洛であったため100人程度でした。これでは防戦するのも難しく、しかも信長は、明智方に己の「首」を取られることだけは避けたい(「首」を取られることは敗将であると考えた)ので自害します。そして信長の身体は本能寺内から消えてしまいます。

 この「信長の遺体消滅説」によって、「信長は生き延びた」という説が流布します。秀吉は、光秀を討つための信長家臣への呼びかけ状に「御屋形様は生きておられる」と記したといわれています。

 現在「本能寺」は、石碑などが建てられていますが、敷地は自治会館や堀川高校本能学舎、特別養護老人ホームの施設となっています。これ以前は、京都市立本能小学校が建っていました。

 「本能寺の変」は、明智光秀による謀反であると伝えられていますが、その理由については多様な説があり、日本史ミステリーの大きな謎とされています。

 2020年から始まるNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公となる物語ですが、愛妻家で側室を持たなかった光秀の生き方は大河ドラマにはふさわしいのかもしれません。しかし、信長を撃つという大胆な行動の裏には、豊臣秀吉、公家の近衛前久(このえ さきひさ1536~1612)、信長の家臣で明智光秀とは親戚関係でもあった武将・細川藤孝(幽玄/1534~1610)などの暗躍があったともいわれています。つまり、謀反を起こしたのは光秀であり、その背後には多くの有象無象の衆がいて、最終的に光秀にすべての責任を負わせた、という説です。たしかに、秀吉の「中国大返し(岡山県の備前高松城から、京都の山崎までの約200キロを10日間で移動した強行軍)」という奇跡のような早業は、敵対していた毛利勢が秀吉勢を追撃しなかったということからも、きわめて計画的な出来事であったと考えられます。

 「本能寺址」の記念碑の前で、この歴史物語を幻想してみるのもいいでしょう。

末廣軒で和菓子を買って…
末廣軒で和菓子を買って…

末廣軒で和菓子を買って…

 本能寺址から少し西へ進むと「空也堂」が左手に見えてきます。紫雲山光勝寺極楽院という天台宗の寺院です。天慶2年(939)に空也上人によって建てられたといわれ、当初は三条櫛笥小路(さんじょう くしげこうじ/かつて一条通から九条通まで南北に延びていた通り)にありましたが、応仁の乱で焼亡。寛永年間(1624~1645年)に現在の地に再建されました。毎年11月の第2日曜日には、空也上人を偲ぶ開山忌(空也忌)の法要が営まれます。

 広い堀川通を越えると、「末廣軒(すえひろけん)」という看板を掲げた、なつかしい雰囲気の和菓子店が見えてきます。歩いてきたのでちょっと甘いものでもいただきましょう。

 「末廣軒」は昭和10年4月8日創業のお店で、現在は二代目の萩野日出明さんと奥さん、そして三代目の息子さんが上用菓子や餅菓子などを一つひとつ手作りで製造されています。初秋でしたが、見た目があまりにおいしそうなので道明寺餅(桜餅)と三色だんごをいただきました。素朴できめ細やかな食感なので、いくつでも食べられそうです。

 「うちの店は近所の人たちを相手に商っていますが、最近はこのあたりにも外国人観光客がたくさんおみえになって、道を尋ねて店に飛び込んでこられます」とご主人。「最近は、喋る翻訳機械というんですか、携帯電話の。あれがあるので便利になったと思います。それにしても、すごい時代になったもんですねえ」と笑顔に。

 できればあまり人に教えたくない小さなお店ですが、一度ぜひ「末廣軒」の和菓子を召し上がってください。かつてどこかで口にした、なつかしい味が口の中で広がります。

末廣軒

〒604-8351
京都市中京区蛸薬師通大宮東入畳屋町407
075-841-1048
午前8時~午後6時30分
毎月6のつく日(6日・16日・26日)
中断されている蛸薬師通、四条通を迂回して…

中断されている蛸薬師通、四条通を迂回して…

 後院通(千本通に続く道)まで来ると、壬生坊城団地前の敷地に「四条坊門小路」の石碑があります。この小路は平安京を東西に貫く通りで、三条大路と四条大路の中間地点にあたります。道幅四丈(約12m)あり、1974年の調査では、平安時代から鎌倉時代の四条坊門小路の南北の側溝、井戸、遺構などが発掘されたことから、ここに広い道が通っていたことが裏打ちされました。

中断されている蛸薬師通、四条通を迂回して…

 この後院通から、蛸薬師通は御前通まで一旦中断します。少し遠回りになりますが、四条通まで下って西に向かいます。四条通は車の通行が多い幹線道路ですが広い歩道があり、さまざまな店が並んでいますので覗きながら歩くのも楽しいものです。

 四条通と七本松通の角、京都に本社を置く大きな印刷会社の敷地内に「朱雀院跡」の石碑と案内板があります。

 「朱雀院(すざくいん)」は、平安京遷都を為した桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇(786~842年)が建て、宇多天皇(867~931年)、朱雀天皇(923~52)、村上天皇(926~67)が修復・再興した後院です。後院とは、天皇在位中に、譲位の後に暮らす御座所のことで、嵯峨天皇の冷泉院や仁明天皇の淳和院、円融天皇の四条院などが有名です。

行願寺

「陰陽(ネガポジ)」で麦酒とお料理を

 御前通を右折(上ル)してしばらく歩くと、ふたたび「蛸薬師通」が西に向かって伸びています。嵐山電車の線路があり、踏切を越えると「陰陽」という看板を掲げた店があります。ライブの演奏を観ながらお酒と料理が楽しめる店です。先斗町から蛸薬師通を歩いてきて、日が暮れて午後6時を回っていたのなら、ここでビールを一杯いただくのもいいかもしれません。

 もともと1996年に烏丸丸太町下ル東入ル界隈でオープンした「陰陽」は、2016年2月に現在の西大路通蛸薬師東入ルの地に移転してきました。若いミュージシャンからベテランまで連夜多くのアーティストが登場し、すてきな演奏を繰り広げています。

 店のおススメのメニューは、鶏の皮を唐揚げにして大根おろしとポン酢をかけた「皮ポン」、広島の珍味として人気がある「子持ちこんにゃく」など、居酒屋にも負けない美味なメニューが揃っていて、ビールにもソフトドリンクにもよく合います。

 若者ばかりではなく、中高年のカップルが京都散策の後にふと立ち寄るなど、気楽な雰囲気のお店です。貸しホールや宴会場にも利用できるので何かの集まりの時も便利。一度立ち寄ってみたいお店です。

陰陽(ネガポジ)

〒615-0002
 京都市右京区西院東今田町40
075-555-5205
午後8時~午前1時
http://www.negaposi.net/

帰りは西大路通から

 帰路は、「陰陽」からそのまま西大路通に出て左折すると、阪急電車の「西院駅」まで歩いてすぐですし、西大路通を右折すれば嵐山電車「西大路三条駅」も近くにあります。

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