一日散策 関西歴史紀行 【四条通 Teramachi】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN30 四条通 Shijo

四条通 Teramachi
四条通 Teramachi
四条通 Teramachi
四条通 Teramachi四条通 Teramachi

 「四条通その1」篇では、四条通の西端にある松尾大社から歩き出し、途中寄り道をしながら西大路四条(西院)までのコースを歩きました。今回の「四条通その2」篇では、引き続いて阪急電車「西院駅」をスタート地点にして、東山に鎮座まします八坂神社までを歩いてみたいと思います。

 ここからの四条通は、かつて大いににぎわった四条大宮、京都の金融街である四条烏丸、新京極や寺町のアーケードが伸びる四条河原町界隈、そして華やかな祇園を通り、石段下と呼ばれる八坂神社までの道のりです。通りには、新しい店や建物が次々と建て替えられていますが、その隙間に、昔ながらの老舗や歴史を刻む建物、石碑が残されています。それらを拾い上げながら歩きましょう。

 四条通の西の端は松尾大社ですが、東の端に八坂神社が鎮座しているということは、2つの名高い神社が対峙している形になっています。松尾大社は「西の猛霊」と呼ばれるほど神の力が強い社であり、「東の厳神」と称されるのが賀茂神社です。賀茂とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)のことで、平安京の東西を二社が鎮護していたといわれています。

 八坂神社は、社伝によると斉明天皇2年(656)高句麗から渡ってきた調進副使である伊利之使主(いりしおみ)が創建されたとあります。別説として、貞観18年(876)に僧侶円如が仏教寺院を建て、後に祇園神を垂迹したことが始まりだというものもあります。地元では「祇園さん」の愛称で親しまれ、正月の初詣では多くの人たちでにぎわい、現在も海外からの観光客であふれています。

 「祇園さんの石段下で待ち合わせ」というのが、三条大橋の高山彦九郎座像前や、元阪急百貨店河原町店の角(現在は京都マルイ店)など、京都の若者たちの待ち合わせ場所のスポットですし、京都を紹介するテレビ番組などにもたびたび登場する人気の地点になっています。

 では、「西院駅」を起点に歩き出しましょう。

西大路四条から四条大宮へ

西大路四条から四条大宮へ

 阪急電車の「西院駅」から歩き出してすぐに、嵐山電車の線路を跨ぎます。四条大宮と嵐山、北野白梅町を結ぶこの線を「嵐電(らんでん)」と呼びます。京福電気鉄道株式会社が運営する路線で、京福とは、京都と福井県を結ぶ鉄道という意味ではなく、京都と福井でそれぞれ路線を持つ鉄道会社ということでこの名がついたものです。現在、福井県内の路線は福井市と勝山市が出資する第三セクター「えちぜん鉄道」となっています。また、出町柳駅から鞍馬方面に延びる「叡山電鉄(通称:えいでん)」も京福電気鉄道が運営していましたが、現在は京阪電気鉄道の子会社となっています。

 京都にはかつて路面電車の路線が網の目のように張り巡らされていました。首都が東京に遷都したことに落胆した京都人に活力を与えようと、日本初の路面電車が走ったのが明治28年(1895)2月1日のこと。その後、京都市営の「市電」となり、北は北大路、南は伏見、東は白川通、西は西大路、そしてその間の通りを細かく走っていたのです。さらに京福電気鉄道の嵐山線と北野線、鞍馬山へいく鞍馬線、八瀬からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで比叡山頂まで行く支線が敷設されます。クルマ社会となる1960年頃まで、京都市内で路面電車の姿を見ない街路はないくらいでした。しかし、1978年9月30日に市電が全面廃止となり、現在残っている路面電車は「嵐電」と「叡電」だけとなってしまいました。

 「嵐電」は、四条大宮から蚕ノ社(かいこのやしろ)、太秦広隆寺、帷子ノ辻など映画撮影所のあるエリアを通り、渡月橋の東側の嵐山まで続いています。連日、多くの観光客が乗車していますが、地元の人々の足としても朝から晩まで走っています。

 四条通七本松の大きな会社の敷地内に、「朱雀院跡」の石碑が建っています。「蛸薬師通」でご案内していますので、そちらもご覧ください。

 壬生寺へ続く坊城通と四条通が交差するあたりに、「梛神社(なぎじんじゃ)」があります。通称「元祇園」ともいわれ、祇園祭の山鉾巡行の折、当社境内にある御供石の上に神饌を置いて神に供える習わしがあります。

 社伝によれば、貞観11年(869)に京の町で流行した疫病を鎮めるため、播磨國(現在の姫路市)の広峯神社から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請した際、牛頭天王の分霊を載せた神輿を「梛の木の林」に置いたことがはじまりです。その後、牛頭天王は八坂神社(祇園社)が創建されるときに移されることになり、梛神社周辺の人たちが花を飾った傘や鉾を振り、音曲を奏でて神輿を送り出しました。これが祇園祭の発祥であるともいわれています。元祇園とはそうした背景から名づけられたのです。

 境内には、朱雀院内から大正7年(1918年)に遷座してきた「隼(はやぶさ)神社」が鎮座しています。そして、境内の一角に、「御自由にどうぞ!」と籠に入れられた“花りん”の実が置かれていました。花梨とも書き、熟した実は芳香を放ち、部屋に置いておくと香しい匂いが立ち込めます。宮司さんから氏子さんへのプレゼントでしょう。花りんの実はシロップ漬けにしたりジャムにしたりすると美味しく、その成分は咳など喉の炎症に効き、のど飴などに使われたりします。こうした心遣いのある神社があることは、ささやかな幸せを感じますね。

梛神社

〒604-8821 京都市中京区壬生梛ノ宮町18−2
075-841-4069

 大きな四条大宮の交差点まで来ました。かつて阪急電車の終点駅として多くの乗降客にあふれ、駅周辺には銀行や飲食店、映画館などがありました。昭和38年(1963)に河原町まで路線が延伸され、現在は特急の停車しない駅になってしまいました。

 駅周辺は今でもにぎやかな雰囲気があり、カフェやレストラン、ファストフード店が軒を連ねています。しかしここには「餃子の王将第1号店」があることが特筆すべきことでしょう。昭和42年(1967)12月25日にオープンした「餃子の王将」は、京都の学生たちに「はやい、うまい、安い」の三拍子で人気を集め、またたくまに全国から海外へ広がっていきました。せっかくこの辺りまで来た記念に、王将第1号店で焼き立ての餃子をいただくのもいいでしょう

餃子の王将四条大宮店

〒604-8365 京都市中京区四条通大宮西入錦大宮町116-2
大宮から河原町まで四条通を歩く
大宮から河原町まで四条通を歩く大宮から河原町まで四条通を歩く

大宮から河原町まで四条通を歩く

 「サン=フェリペ号事件」をご存知でしょうか。

 文禄5年(1596)土佐に漂着したスペインのフェリペ号に駆け付けた豊臣政権五奉行の1人増田長盛が、乗組員に「なんでスペインは世界各地に領土を持っているのか?」と尋ねたところ、「スペインの国王はキリスト教の宣教師を世界中あちこちに遣わせ、布教をしながらやがてはそこを征服し支配したからこれほど領土が多くなったんだ。抵抗する者は兵力でこれを押さえつけて」というような答えをします。これを伝え聞いた豊臣秀吉はキリスト教の布教活動を弾圧します。

 その現場となったのが、ここ四条堀川近くにあったキリスト教の施設でした。かつてこの地は妙満寺という寺院の敷地でしたが、教会と修道院、施設院などが建てられていたといわれています。ここで布教活動をおこなっていた日本人を含む26人の信者が、大坂や堺を引き回され、長崎西坂で磔にされ槍で刺殺されるという事態になりました。1597年2月5日のことで、日本人初のキリスト教殉教者でした。
 26人は約250年後の1852年にローマ教皇によって聖人と宣言されました。

フランシスカンチャペルの案内板

〒600-8391 京都府京都市下京区佐竹町390

 堀川通、西洞院通を越えたあたりから南に向かって、細い路地が伸びています。「膏薬辻子(こうやく ずし)」です。

 辻子とは図子とも書き、路地などと同様の細道のことで、京都市内にはこうした辻子が幾本もあります。「膏薬辻子」のあたりは皇后を幾代も輩出した大納言、藤原公任(きんとう)の邸宅四条宮があった場所です。また、踊念仏で知られる空也上人が道場を開き、念仏修行をおこなった地でもあります。

 天慶3年(940)天慶の乱により戦死した平将門(たいらのまさかど)の首が京に晒されてから町中で忌まわしい出来事が頻発したことから、空也上人は神田神宮を建て鎮魂につとめました。空也という名がいつのまにか「膏薬」と訛り、この細道が「膏薬辻子」と呼ばれるようになったといわれています。「くうや」→「こうや」→「こうやく」となるのはかなり無理があるように思いますが、膏薬の効果を期待し、縁起を担いだのかもしれませんね。

 四条通の一本南の綾小路通まで、曲折しながら続く「膏薬辻子」。足を踏み入れると車の騒音も消え、静かな石畳を踏む感触が嬉しいものです。

膏薬辻子

京都市下京区新釜座町付近

 また四条通に戻り、東山に向かっていくと室町通と交差します。

室町通を少し下ったところに「八橋検校道場跡」の石碑があります。筝曲の八橋流(後の生田流、山田流)の創始者である八橋検校(1614~1685)の道場があったところで、平調子といわれる新しく、憂いに満ちた旋律の筝曲を創作しました。「八橋の十三組」「六段の調べ」など今も聴くことができる名曲を作曲しました。道場には武家だけでなく、町人衆や花街の人たちも通ったそうです。八橋検校が亡くなった後、箏の形をした煎餅が作られ、これが現在も京銘菓として人気のある「八ッ橋」です。

「八橋検校道場跡」石碑

京都市下京区室町通綾小路上る西側

 京都のビジネス街で金融街でもある烏丸四条の交差点まで来ました。交差点の角には古くから大きな銀行が並んでいます。古い時代の写真を見ても、美しい建物が写っています。その当時の建物の一部が現在のビルの前面に残されています。

 烏丸通の東側の歩道を少し南に下ルと、ビルの間に古びた石碑が建っています。「鈴屋大人寓講学旧地の碑」です。鈴屋とは、国学者である本居宣長(1730~1801)の号で、終生伊勢国(現在の三重県)松坂で暮らした宣長は、何度も京都に出向し、門人に講義をおこないました。この地は晩年の享和元年に講義をおこなった寓居があった場所で、同年暮れに松坂で没しています。まさに人生を賭して持っている知識と学識を門人たちに伝え残したのでしょう。
 『源氏物語』に「もののあわれをしる」という発見をした宣長。この国が古来より持ち続けてきた無常観や哀愁に日本人の本質を求めたことは、今の私たちにも思索のヒントを与え続けているようです。  高倉通と交わる付近のビルの片隅に「東五条第跡」という財団法人古代学協会の案内看板があります。昭和39年に設置されたもので、読みづらくなってきていますので、ここに書き写しておきましょう。

 「東五条邸は初め左大藤原冬嗣の邸宅であったらしく、後その娘で第五十四代仁明天皇の女御の順子に伝えられた。順子はのち太皇太后となり「五条の后」と呼ばれた。文徳天皇は天長4年(827)順子を生母とし、ここに誕生されたと推定される。この邸宅は順子から摂政太政大臣良房へ、良房から関白太政大臣基経に次いで関白太政大臣忠平へと伝えられ、忠平は生涯の大部分をここですごした。忠平の妹で醍醐天皇の中宮に立てられた穏子は東五条第を里第とし、ここで康子内親王(920)と朱雀天皇(923)を生んだ。穏子は文才にめぐまれその女房には才媛が多く、この邸宅は平安朝女流文学発祥の地となったのである 昭和三十九年十月 財団法人古代学協会」

 こんなところに「平安朝の女流文学発祥の地」があるとは、実に興味深いですね。小説家を志す女性なら、一度ここを訪ねてみてもいいかもしれませんね。

「鈴屋大人寓講学旧地の碑」

〒600-8411 京都市下京区水銀屋町

「東五条第跡」

京都市下京区四条通高倉町付近

 四条通に沿って多くの文人墨客が邸宅を構えていましたが、画家の円山応挙(まるやまおうきょ/1733~1795)もこの界隈に暮らしていました。丹波國出身の応挙は、京都で石田幽汀(ゆうてい/1721~1786)に師事し、狩野派の画法を学びました。また、西洋画の遠近法や、写実的な画風を取り入れ、円山派と呼ばれるほど大きな痕跡を残しました。代表作に、『七難七福図』、『孔雀牡丹図』、『雪松図』などがあり、また「足のない幽霊の絵」を考え出したのが応挙だといわれています。

「円山応挙邸址」

京都市下京区四条通堺町東入南側付近
新島旧邸

 河原町までやってきました。かつての阪急百貨店は現在「京都マルイ店」になり、相変わらずにぎわっています。このまま四条通を進み、高瀬川を越えると鴨川に架かる四条大橋が見えてきます。大勢の観光客で橋の上はいつも人波が途切れません。鴨川べりを歩く人たちも多く、夕暮れともなればカップルの姿も多くなります。

 大橋の東詰から振り返ると、「北京料理・東華菜館」のレトロな建物の全景が眺められます。ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって設計され、1926年に竣工した登録有形文化財です。建物内のエレベーターは1924年製造のOTIS製で、わが国最古のエレベーターでもあります。興味のある方はお出かけください。

京都市歴史資料館

 そして、四条大橋の東に建っているのが「南座」です。慶長年間(1596~1615)に起源があるといわれ、日本最古の劇場です。

 慶長8年、出雲の阿国(おくに)の“かぶき踊り”が人気を集め、四条の河原付近は芝居小屋が七座建てられました。しかし、芝居小屋が大坂に移ったこともあり、江戸中期になると南、北、西の三座となり、「南座」だけが残りました。幾度も改修工事が行われ、近年も耐震補強の大規模改修工事がおこなわれ、平成30年、恒例の「顔見世興行」が11月12月の2ヶ月間、興行されました。

 美しい勘亭流文字で書かれた「まねきあげ」を見上げるだけで、冬の訪れを感じます。「顔見世を観ないことには年を越せない」という京都人は多く、贔屓の役者に声をかけて年の瀬を迎えることが行事になっているとか。1階から3階、そして桟敷(さじき)席までの座席があり、ぜひとも一度、晴れやかな歌舞伎の舞台をご観覧あれ。

南座

〒605-0075 京都市東山区四条大橋東詰
京都御所の横の小径

 ようやく祇園さんの石段下まで歩いてきました。大勢の観光客で常ににぎわっています。全国の八坂神社、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする約2300社の総本山で、毎年7月におこなわれる祇園祭は日本三大祭りの1つ。京都の町がもっとも熱気を帯びます。

 八坂神社の名は、慶応4年(1868)の神祇官達により改称するまで「感神院」あるいは「祇園社」と呼ばれていました。創祀には諸説あるものの、斉明天皇2年(656)に高句麗より渡ってきた伊利之使主(いりしおみ)が、新羅国にある牛頭山の素戔嗚尊を奉斎したことがはじまりであると伝えられています。

 八坂神社の神事として、毎年元旦におこなわれるのが「白朮祭(おけらさい)」、通称「おけら参り」です。12月31日の大晦日、午後7時からの除夜祭が終わると、境内3カ所に「白朮火授与所」の「をけら灯籠」に本殿内から「白朮火」が移されます。その火を「吉兆縄」に受けて家に持ち帰り、無病息災を願って神棚の蝋燭に火をつけます。また、元日に食べる雑煮を炊く火種にもします。京都の人たちは八坂神社で火を受け取り、縄をくるくると回しながら家路につきます。そして、残った火縄は「火伏のお守り」として台所などにお祀りします。京都に暮らす人だけができる、どこか懐かしくて楽しい習慣ですね。

 さて、にぎわう八坂神社の境内を抜けて、円山公園へ足を伸ばしましょう。春になると優雅に咲き誇る「しだれ桜」も、秋から冬にかけては静かに風に身をまかせています。

 公園内で古くからある茶店「まる山一休庵」で名物の「あまざけ」をいただきましょう。寒い季節になら体がゆったりと温まります。かつて「一休庵」では、朝に散歩する人のために「牛乳とパン」を並べていたそうです。ジャムなどを塗ったパンと牛乳はその当時とてもハイカラで、しかも栄養たっぷりのメニュー。お客さんが注文するときは、「ちちパン、ちょうだい」と言ったそうです。

そんな昔ばなしをしてくれた女将さんは、その頃、店頭に掲げていた看板を取り出してきてくれました。町のパン屋さんが朝いちばんで焼き上げたパンを運び、まだ余熱があるパンの上にジャムやバターを塗った「ちちパン」、今売り出しても人気の商品になるかも。

 また、約60年あまりここのお店を営んでいる女将さんは、1970年前後に大学生たちがデモをした時代がなつかしいといいます。河原町通から四条通を進み、祇園の石段を上って円山公園にデモ行進してきた学生たちは、「一休庵」の商品であるコーラの空瓶を火炎瓶にするおそれがあると警察にいわれ、あわてて店の奥に仕舞い込んだそうです。「でも、あの時代の若者たちは元気でしたねえ」と、女将さんは遠くを見る目になって語ってくれました。
 「一休庵」でおいしい「あまざけ」を頂き、ひと休みしたらまた八坂神社の境内を抜けて帰路に就きましょう。

八坂神社

〒605-0073 京都市東山区祇園町北側625番地

「まる山 一休庵」

〒605-0071
京都市東山区円山公園内シダレ桜北側
075-531-6731
午前9時~午後5時
不定休
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