一日散策 関西歴史紀行 【河原町通 Badai】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN01 河原町通 Kawaramachi

河原町通 Kawaramachi
河原町通 Kawaramachi
河原町通 Kawaramachi
河原町通 Kawaramachi河原町通 Kawaramachi

 河原町通は京都の繁華街を通る有名な通りで、葵橋西詰から十条まで南北に貫く長い通りです。以前に葵橋西詰から三条あたりまでご案内しました。今回は、十条から四条通までを歩いてみましょう。

 河原町通は平安京建都の際には存在していなかった通りで、天正年間(1590年前後)に豊臣秀吉がおこなった京都大改造で造られた「御土居」が現在の寺町通にあたり、その東側は鴨川が流れていました。1611年、豪商である角倉了以・素庵親子による高瀬川開削事業により寺町通と鴨川の間に敷地ができ、多くの家々が建ち並ぶようになります。この時に河原町通の原型が造営されたようです。その後、東海道五十三次の始終点である三条大橋界隈に旅館や料理店が数多く建てられ、たいそう賑わいます。そして現在、三条から四条界隈は京都第一の繁華街として多くの人々が集うエリアになっています。

 「河原町通その1」篇では、北の葵橋西詰を起点にしましたが、今回は南端部にあたる十条から北に向かって河原町通を歩いていきましょう。片側二車線の車の通りが多い道ですが、舗道が整備されていますのでゆっくりと歩くことができます。歩き出す起点となる十条へは、京都市営地下鉄「十条駅」からスタートします。JR京都駅から南方向の地下鉄に乗ると2つ目の駅です。ただ、「十条駅」は烏丸通にありますので、駅から地上に出て、東の方向に「十条通」を少し歩くことになります。この「十条通」は平安京時代には存在しなかった通りで、近代になって整備された道です。ちなみに、一本北側に東西に延びる「九条通」は平安京の最南端の「九条大路」でした。

 「竹田街道」を越えると「河原町十条」の広い交差点があり、南側を高速道路が走っています。ここから北に向かって広い「河原町通」が伸びています。では、歩き出しましょう。

豊かな農地が広がっていた九条界隈
豊かな農地が広がっていた九条界隈豊かな農地が広がっていた九条界隈

豊かな農地が広がっていた九条界隈

 十条から河原町通をしばらく進むと通り沿いにコンビニが見えてきます。そこを西へ入り、一筋目を上ルと「長谷川家住宅」があります。この地域の庄屋を勤めた長谷川家が寛保2年(1742)に建てた農家住宅です。取材に訪れたときは休館時期で、残念ながら内部の風景をご紹介できませんが、7月第3土曜日~8月末日と、12月第2土曜日~3月第2日曜日の夏冬期を除き、毎週土曜・日曜日に開館していますので、時期を確かめてお出かけください。

 長谷川家が取り扱っていたこの地域の農作物は米をはじめ、九条ネギや京人参、慈姑(くわい)、真桑瓜、藍などでした。なかでも「九条ネギ」は今も人気がある葉ネギで、和え物にしても煮物にしてもおいしい野菜です。「九条ネギ」の由来は、言い伝えによると和銅4年(711)に伏見稲荷大社が創建されたとき、浪速(大阪)から移植され、この地域で栽培が始まったといわれています。つまり、平安京遷都以前から植えられていたのですね。

 平安時代には、弘法大師空海が大蛇に追われ、思わずネギ畠に逃げ込んだ話が残っています。地域に人たちは今も大師の縁日である21日にネギ畠に足を踏み入れたり、食したりしないそうです。こうした縁起を担ぐ習慣は京都に多く、例えば祇園祭の期間中(7月)は、キュウリの切り口が八坂神社のご神紋と似ていることから畏れ多いこととキュウリを口にしません。

 願掛けのために「断ち物」をする風習は日本各地にみられるようで、歴史上有名なものとして、「上杉謙信の女人断ち」があります。謙信は熱心な仏教信者で、とくに毘沙門天信仰が篤かったため「生涯不犯(異性と交わらない)」を貫きました。そこには、合戦での勝利祈願の思いもあったようで、武将としてみずからに禁忌(タブー)を強いたのでしょう。同じように「生涯不犯」であった人物に幕末期の吉田松陰がいます。松陰の場合は信仰心からではなく、みずからの思想実践のための使命感による「生涯不犯」だったようです。また、詩人の宮沢賢治も女性と交わることがなかったといわれていますが、賢治の場合は性愛そのものに対する違和感、敬遠感があったように思えます。

長谷川家住宅

毎週土曜・日曜日(但し夏期7月第3土曜日~8月末日/冬期12月第2土曜日~3月第2日曜日は休館)
午前10時~午後4時
大人(中学生以上)600円・小学生300円
http://hasegawake.net/

 長谷川家住宅がある地域は古くから宇賀辻と呼ばれていて、少し北へ上ルと宇賀神社の御神木である大きな椋(むく)の木が見えてきます。樹齢600年を数える巨樹は京都で最古であるといわれています。宇賀神社の創建年代は不明ですが、中臣(藤原)鎌足(614~669)が月の輪に狩りに出かけた折、金印を埋めて、「やがてこの地に都が成り、繁栄する」と言ったそうで、埋めた地が宇賀神社だといわれています。静かな境内は清らかに保たれ、地域の人々に大切にされている様子がうかがい知れます。

仏所跡から渉成園へ
仏所跡から渉成園へ

仏所跡から渉成園へ

 宇賀神社からはしばらく歩きます。平安京最南端の九条通、八条通を越えると東海道新幹線と東海道本線の高架橋が見えてきます。途中、たたずまいのいい町家があったりします。また東九条界隈には1920年代から朝鮮の方々が暮らしていて、多くの朝鮮韓国料理店の看板が掲げられています。「ホルモン焼き」の名前の起源については、「捨てるもの=放おるもん」という関西弁からだという説がありますが、肉の中に含まれるホルモン成分が由来であるという説が、おいしいホルモン焼きには合っていると思います。

 鉄道線の高架下をくぐり抜け左手(西側)に京都タワーが見え隠れする河原町通を七条通までやってきました。ちょっと七条通を西に行くと、高倉通と交わる東南角に木製の案内板が建っています。「七条仏所跡」とあり、平安時代中期に活躍した仏像彫刻家の「定朝(じょうちょう)」一族や子弟子孫が暮らしていた仏所があった場所で、「七条仏所」と呼ばれていました。

 定朝作としては、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像が有名です。鎌倉時代になると彫刻師として名高い運慶、湛慶、快慶といった人物がこの仏所は輩出しています。彼らは奈良東大寺南大門の阿吽の金剛力士像を彫り、さらに京都東山三十三間堂の1001体の千手観音像の中央に位置する千手観音坐像(国宝)を彫ったのが湛慶です。湛慶は運慶の息子にあたる人物です。

 こうした優れた仏師を生み出した仏所ですが、室町時代になると閑散とし、やがて四条烏丸付近に移転。幕末の動乱期に焼失してしまったよういです。現在は民家の敷地内に案内板が出ているだけですので、勝手に足を踏み入れたりされないようにしましょう。

七条仏所跡(案内板)

京都市下京区七条通河原町西入材木町付近(七条通高倉東南角)

 河原町通に戻り、北へ少し行くと長い石塀が北と西に向かって並んでいます。真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地である「渉成園(しょうせいえん)」です。中国六町時代の詩人である陶淵明(とうえんめい/365~427)の「園日渉而成趣」が由来の園地で、周辺には枳殻(からたち)が多く植わっていたことから「枳殻邸(きこくてい)」とも呼ばれています。

 陶淵明は下流士族出身で成人して官職に就きますが、やがて郷里に戻り、農作業をしながら晴耕雨読生活をし、詩作をしたことから「田園詩人」といわれています。故事ことわざに「歳月人を待たず」という言葉がありますが、これは陶淵明の「雜詩其一」にある詩の一節で、「時は人の都合など関係なくどんどん過ぎていくものだ」と解釈し、「だから、今は一所懸命勉強しなさい」だとか「休まないで働きなさい」というお説教に使われます。身に覚えがありませんか?

 さて、「渉成園」は河原町通の一本西の「間之町通」沿いに入園口があります。時間があればぜひ立ち寄ってみたい場所です。

渉成園

〒600-8505
京都市下京区烏丸通七条上る
075-371-9210
http://www.higashihonganji.or.jp/worship/shoseien/
3月~10月/午前9時~午後5時(受付は午後4時30分まで)
11月~2月/午前9時~午後4時(受付は午後3時30分まで)
「参観協力寄付金」として、500円以上の懇志を募る。志納した参観者には、『渉成園ガイドブック』が贈呈される。
女性の守り神様「市比賣神社」へ

女性の守り神様「市比賣神社」へ

 ふたたび河原町通に戻り、さらに北に向かって歩いていくと「市比賣神社(いちひめじんじゃ)」があります。

 祭神として市寸嶋比賣之命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比賣之命(たぎりひめのみこと)、多岐都比賣之命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣之命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)の五女神が祀られた神社で、桓武天皇が平安京遷都の際、左右双方の京の市座(常設市場)を護る神社として延暦14年(795)に創建されたという由緒があります。元来、東市座内の七条坊門に建っていましたが、天正19年(1591)に現在の地に移ってきました。

 商売繁盛を保護し、子育てと女性の守護、女性だけの厄除けの神を祀ることから、全国の女性達からの信仰を集めています。また近年は「カード塚」が創られ、あらゆるカードを供養するというモダンな祭典もおこない、こちらも人気を博しています。

  撮影日も多くの女性たちで境内はにぎわっていました。「女人お守」や「姫おみくじ」、トイレのお守りである「おとう鈴」など、そのゆかりを知ると楽しい授与品も豊富で、お土産には最適です。

市比賣神社

〒600-8119
京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入ル
075-361-2775
https://www.ichihime.net/index.html
無休
午前9時~午後4時30分
秀吉によって寺が集められた界隈へ
秀吉によって寺が集められた界隈へ

秀吉によって寺が集められた界隈へ

 市比賣神社の周辺には多くのお寺があります。天正19年(1591)、豊臣秀吉の命によって多くの寺院が寺町通から富小路などへ移転してきました。

  浄土宗西山派の延寿寺は、後白河上皇の御願により蓮華王院(三十三間堂)を供養した際、本尊の阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来の三尊が造られました。室町時代に天台宗から浄土宗に改宗され、1591年の秀吉京都大改造により、下京の中金仏町付近から現地へ移転してきたと伝えられています。その後、1788年の天明の大火によって焼失。1864年の禁門の変の火災で焼失。三尊の金銅の本尊も被害を受けたそうです。

延寿寺

〒600-8119
京都市下京区河原町通六条下る本塩竈町588

 浄土宗極楽寺は、平安時代に源融(みなもとの とおる/822-895)の邸宅であった六条河原院で塩焼をおこない、貴族たちが遊興した跡地に建てられた寺院です。河原院とは、六条大路と北側を六条坊門小路、東を東京極大路、西側は萬里小路に囲まれた広大な敷地の源融の邸宅地で、陸奥国塩竈の風景を模した庭園があり、尼崎より毎月海水を運搬してきて塩焼きをおこないました。源融は、嵯峨天皇の子息で左大臣、大納言などを歴任した公卿で、『源氏物語』の光源氏のモデルとも称される人物。河原町の地名は、この河原院が由来であるといわれています。塩焼きをすることの意味は分かりませんが、海のない京都で塩焼きをすることは、大変めずらしいことだったのでしょう。 現在も、この付近の地名は本塩竃町となっています。

極楽寺

〒600-8119
京都市下京区富小路通五条下る本塩竃町540

 浄土宗蓮光寺には、「負別(おいわけ)如来」と呼ばれる本尊の阿弥陀如来が祀られています。この本尊は、鎌倉時代の仏師である快慶の作といわれ、快慶が東国の僧侶の求めで阿弥陀如来像を作った折、あまりに尊い出来栄えに手元に置いて護持したいという思いをとめられず、僧の後を追いかけ山科付近で追いつき懇願すると、その僧侶も感銘し、箱を開けたところ仏像が二体に分かれていたそうです。二人は感涙し、それぞれ一体ずつを背負って別れます。蓮光寺の阿弥陀如来像がその一体で、東国の僧侶が持ち帰った仏像は、仙台市泉区にある阿弥陀堂に安置されます。こちらの阿弥陀如来像は「笈分(おいわけ)如来」と称され、同じ「おいわけ」でありながら漢字が異なるものとなっています。蓮光寺の境内には、関ケ原の合戦から大坂夏の陣で活躍した土佐国の武将である長曾我部盛親(ちょうそかべ もりちか/1575~1615)の墓所もあります。

蓮光寺

〒600-8119
京都市下京区富小路通六条上る本塩竈町534

 浄土宗新善光寺。本尊である阿弥陀如来像は、信州長野の善光寺の創建者である本田善光の子である善助により、分身像として造られたものだそうです。当初、この仏像は南都(奈良県)にありましたが、天仁2年(1109)に堀川松原の地に伽藍が建立され、そこに安置されました。以後、この寺院は来迎堂新善光寺と呼ばれ、多くの帰依者を集めました。しかし、応仁の乱後、兵火に遭い、寺地も転々とし、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在の地に移されました。江戸時代には、幕府の御朱印の寺領を受け、天下泰平、国民安全の御祈祷所として栄えましたが、天明・元治の大火で類焼してしまい、現在の堂宇は、その後に再建されたものです。

新善光寺

〒600-8119
京都市下京区富小路五条下ル本塩竈町

 塩竈山(えんそうざん)と号する浄土宗の上徳寺(じょうとくじ)は、慶長8年(1603)に徳川家康により、上徳院殿(阿茶の局)が開基となり、伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した寺といわれています。本堂は宝暦3年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したもので、堂内には江州(滋賀県)矢橋の鞭崎(むらざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置しています。

 また、地蔵堂は、明治4年(1871)に再建され、高さ2m余の石地蔵を安置しています。この地蔵は、「世継地蔵」と呼ばれ、往古から、良い世継ぎが授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めていて、「京のよつぎさん」と親しまれています。「よつぎ=世継」とは、安産と子授けの願いを叶えてくれるお地蔵様。江戸時代に子供を亡くした人が、再び子供を授かるよう阿弥陀様にお願いしたところ、その夜、夢の中にお地蔵様が現れ「私の姿を石に刻んで祈りなさい」とのお告げがあり、日々祈願したところ、立派な世継ぎを授かったという逸話があります。

 毎年2月8日は1年のうちでも最もご利益が大きい功徳の日で、上徳寺では「世継地蔵尊大祭」が開かれます。この日は、一億日分のご利益を授かるといわれていますが、1億日は約27万4000年!一度ぜひお参りにでかけたいものですね。

上徳寺

〒600-8119
京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町556
「幸福堂」で“ごじょうぎぼし最中”をお土産に……
「幸福堂」で“ごじょうぎぼし最中”をお土産に……

「幸福堂」で“ごじょうぎぼし最中”をお土産に……

 河原町通が松原通と交わる西側に「幸福堂」という〈ごじょうぎぼし最中(もなか)〉で有名な京菓子の老舗「幸福堂」があります。牛若丸と武蔵坊弁慶の物語で有名な五条大橋は、戦いに負けた弁慶が、終生の主従を誓った橋で、平安時代には清水寺へ向かう参道として、現在の松原橋に架かっていました。その橋の欄干に「擬宝珠」という玉葱の花を象徴化したものが飾られていて、東洋諸国では建築物の宝飾物や魔除けとして広く用いられています。その形をかたどったのが幸福堂の「ごじょうぎぼし最中」です。

 この「ごじょうぎぼし最中」の「弁慶」という逸品をいただきましたが、皮からあふれ出したそのボリュームある餡子にまず視覚的に圧倒されます。やはり身長195cm体重120kgの豪傑といわれた弁慶だけのことはあります。かぶりつくように一口食べると、皮と餡子のバランスが絶妙で、丹波大納言小豆のうま味が口の中で広がります。二口三口と食べてお茶をいただきます。こうなりますと、もう止まりません。がぶりと大きく食べても、おちょぼ口で少しずつ食べてもおいしくて、豊かな気持ちになります。きっと弁慶も、義経も「ごじょうぎぼし最中」を食べると、血気盛んさを少し落ち着かせてしまうことでしょうね。

 また、店内にはさまざまなお菓子が並んでいて、どれも魅力的です。京の半生菓子やお汁粉、六方焼、みかさ、茶団子、三色団子、わらびもち、手打ちよもぎ、大福餅、おはぎ、栗餅などが並んでいます。お店で買って、すぐにその場で食べてしまいたくなる衝動が抑えきれませんね。

 「ごじょうぎぼし最中」は、第18回全国菓子大博覧会(1973)で「全菓博大賞牌」受賞、第21回全国菓子大博覧会(1989)で「内閣総理大臣賞」を受賞しています。思わず笑みがこぼれてしまうおいしさで、京都土産にはうってつけです。

ごじょうぎぼし最中本舗 幸福堂

〒600-8026
京都市下京区松原通河原町西入松川町388-2
075-341-8850
午前9時~午後7時00分
四条河原町まで……

四条河原町まで……

 「河原町通その2」編は、ここ四条通で終点です。「河原町通その1」編と合わせてお読みいただければ、河原町通の全貌が見えてくると思います。

 四条まで来て、たそがれ時であれば木屋町通に並ぶ居酒屋や、祇園の料理店へ足を伸ばしてみるのもいいでしょうね。

(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

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