一日散策 関西歴史紀行 【西洞院通 Nishinotouin】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN34 西洞院通 Nishinotouini

西洞院通 Nishinotouin
西洞院通 Nishinotouin
西洞院通 Nishinotouini
西洞院通 Nishinotouin西洞院通 Nishinotouini

 西洞院(にしのとういん)通は京都市内を南北に貫く約6キロの通りで、平安京が建都されたときの西洞院大路にあたる古い道です。南は、京都駅を越えた南側、十条通からはじまり、北は京都御苑の西から伸びる武者小路通までの間で、南区―下京区―中京区―上京区と4つの区を跨いでいます。

 かつて西洞院通には、京都駅正面の塩小路通から四条通の間を市電堀川線が敷設されていました。京都駅から北野天満宮へ参詣する人たちに利用されたもので、明治28年(1895)に京都電気鉄道という私鉄路線として開業し、大正7年に京都市に買い上げられ官営となります。車両はナローゲージと呼ばれるレール幅の狭い路線で、市民からは「チンチン電車」と呼ばれ愛されていました。西洞院通はそれなりの道幅があるとはいえ、複線の電車が走ると、京町家の軒先の下をかすめて走行することになり、筆者の知り合いによると「玄関を出たらすぐ目の前を電車が走っていて、急に家から飛び出したらあかんえ…と、よう注意されましたわ」と言っていました。しかし、昭和36年にモータリゼーションの影響を受け、堀川線は廃線となりました。現在、塩小路と蛸薬師通間が2車線の比較的広い道路となっているのは、市電の電車道の名残です。

 平安時代の西洞院大路は道幅8丈=24メートルもあり、二条通を境として、上(北)は朝廷に関わる役人などの屋敷邸宅街で、下(南)は商人や町民が暮らす住宅地であったそうです。室町時代になると、この通り沿いには多くの造り酒屋が並んでいました。通りの北の武者小路通は、武者小路千家の茶室である官休庵があることから、通りの地下には清らかな水脈があったのでしょう。その清涼な水を汲み上げて酒や豆腐を造ったりしていたと思われます。

 西洞院の「洞院」とは、天皇が退位した後に上皇となって暮らすエリアを指します。しかし、文正2年(1467)から始まった応仁の乱により大路も被害を受けます。その後再興しますが、天正18年の豊臣秀吉の京都大改造によりさらに開発され、江戸時代には職人の町として発展、西洞院川があったので染物屋や紙漉き屋なども多かったようで、現在も染物会社が何軒も残っています。

 今回は、平安京からの長い歴史を持つ西洞院通を端から端まで歩いてみましょう。
起点となるのは、近鉄京都線「十条駅」。JR京都駅併設の近鉄電車乗り場から2つ目の駅です。

賑わう京都駅から西洞院通へ
賑わう京都駅から西洞院通へ

賑わう京都駅から西洞院通へ

 近鉄京都線「十条駅」から十条通(鳥羽通とも呼ばれています)を西洞院通十条へ。途中、任天堂のビルが目印です。ここから西洞院通は始まります。やがて、東海道新幹線の高架が見えてきて、京都駅に行き当たります。通りは一旦中断されますので、駅構内を抜けて、北側の京都タワーのある塩小路通に進みましょう。

 京都駅はいつも混雑しています。日本人だけでなく諸外国からの観光客でにぎわい、駅ビルと向かい合う京都タワーの写真撮影に余念がないようです。京都駅前の塩小路通を西に進むと西洞院通と交差する地点に「新選組最後の洛中屋敷跡」という石碑があります。

 新選組は、壬生村の八木邸などを屯所とした後、西本願寺に移り、その後、徳川慶喜直属となり、この塩小路西洞院付近に京都最後の屋敷を建てます。しかし、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北すると隊士たちは京都を去っていきます。その後、甲州勝沼の戦いや彰義隊の上野戦争、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館五稜郭の戦いなどに進軍し、それぞれの運命をたどります。最後に居住した京都の屋敷で隊士たちは何を思い、これから何をなすべきか語り合っていたのかもしれません。新選組として京都に滞在した期間は、文久3年(1863)から慶応4年(1868)までの5年足らずでした。

新選組最後の洛中屋敷跡

〒600-8234
京都市下京区南不動堂町付近

 京都駅からさほど長く歩いてきたわけでもないのに、このあたりには古くていい家並みが残っています。東本願寺と西本願寺の間に正面通という細い道があり、西洞院通を東に少し入ったところに「蛭子(えびす)神社」という、実に小さな社があります。扉が閉ざされていて様子がよく分からないのですが、ウナギの寝床風に奥行きが広く、地域の人たちにとっては大事な神社のように思えます。

 創建は本願寺建立以前のようで、蛭子様の像が付近の井戸から現れたことを記念して建立された神社のようです。西本願寺が現在の地に移ってきたのが天正19年(1591)の秀吉の寄進によるもの。そして、東本願寺は徳川家康の寄進で慶長7年(1602)に現在の地に落ち着き、この辺りは本願寺の寺内町となってしまいます。そこで蛭子神社は東山五条坂下の若宮八幡宮社に合祀されたという記録があるようです。その後、ふたたびこの地に戻って来て、現在も年に一度、地域の人たちによって祭事がおこなわれているとか。

 小さくてガイドブックにも載らない神社ですが、気になりますね。写真には写っていませんが、「皇紀二千六百年記念」と刻まれた石碑が建っています。神武天皇即位紀元2600年ということで、昭和15年(1940)に建てられたものです。一度、足を運んでみる価値があると思います。

蛭子神社

〒600-832
京都市下京区蛭子水町正面通
五條天神社とその周辺石碑
五條天神社とその周辺石碑五條天神社とその周辺石碑

五條天神社とその周辺石碑

 天神様といえば、菅原道真公が御祭神であると思いがちですが、天神社の中には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っているところもあります。少彦名命は、大国主命が国造りをする際、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗り、蛾の羽を蓑のように身に着けて、海の彼方からやってきたと伝えられる神様。天乃羅摩船とは、ガガイモという日当たりのいい路傍に生える草で、紡錘形で袋状になった実がなります。この実を2つに割ったものが天乃羅摩船ということですから、どれほど小さな人物であったか……まるでヨーロッパの妖精のような存在なのかもしれません。

 大国主命の国造りを手伝うと、少彦名命は紀州熊野の御崎で草に弾かれて常世の国へと渡り去ったといわれています。草に弾かれて飛び去るなんて、やはり相当小さな体躯としかいいようがありませんね。なかなかの悪童だったという言い伝えもあり、ますます妖精のような存在です。大国主命が「国つ神」であるのに対し、少彦名命は「天つ神」と呼ばれ、「天つ神」→「天神」になったのではないかと推測されています。ここ五條天神社は、京都市内にある北白川天神宮や大豊神社などと同じく、少彦名命が祀られている天神社です。

 また、五條天神社の名が登場するものとして『義経記(ぎけいき)』(作者不詳)があります。源義経について書かれた史伝物語で、武蔵坊弁慶も登場します。京で千本の太刀を奪い取ろうと決意した乱暴者の弁慶が、999本集めた太刀の最後の一刀を義経(当時は牛若丸)から奪い取ろうとしたものの、返り討ちに遭って敗れ、それから義経の家来となった話はよくご存知だと思います。

 義経と弁慶が初めて出会ったのが、五條天神社境内を流れる西洞院川に架かる橋の上であったといわれています。「♪~京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる~♪」という文部省唱歌(作詞・作曲者ともに不詳)がありますが、安元2年(1176)当時、五条大路は現在の松原通で、五条大橋の名が登場するのは後年になってからです。いずれにしても、五條天神社には歴史に刻まれた多くの物語が層をなしていますね。ちなみに歌の続きはこんな歌詞です。「♪~牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く~♪~前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった~♪」……牛若丸はツバメのような素早い身のこなしができる人だったんですね。

五條天神社

〒600-8459
京都府京都市下京区天神前町351
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000069
日出から日没まで

 天神社の北側の松原通を東に入ると、関東より帰洛した親鸞聖人が暮らした光圓寺があり、門前にそこに「親鸞聖人洛中寓居跡」の石碑が建っています。

 もう一本北側の高辻通を西に行くと「道元禅師示寂の地」の石碑があります。曹洞宗開祖である道元は、正治2年(1200)に京都で生まれ比叡山で出家の後、建仁寺の栄西のもとで修業を重ね禅を学びます。そして、23歳の時に宋に渡り禅の修行を極め、帰国してから越前(福井県)に創建したのが永平寺です。54歳になった道元は上洛し、俗弟子であった寛念の屋敷に滞在していた折に生涯を閉じたそうです。

 ちょっと寄り道しながら、親鸞と道元という鎌倉仏教六宗のうちの2人の開祖ゆかりの地を訪問する……京都ならではの楽しみです。

親鸞聖人洛中寓居跡(光圓寺)

〒600-8448
京都市下京区松原通新町西入藪下町

道元禅師示寂の地

〒600-8465
京都市下京区高辻西洞院町
菅大臣神社の梅

菅大臣神社の梅

 そして、こちらの菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)は菅原道真公をお祀りしていて、正式名称は「菅大臣社」(かんだいじんのやしろ)と呼ばれています。道真公の生誕地ともいわれ、紅梅殿や白梅殿という邸宅や菅家廊下という学問所跡、産湯を使った井戸などが境内に残されています。そして菅公といえば思い出す名歌、

 東風吹かばにほいおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

この歌が詠まれた“飛梅”もあります。

 すがすがしい境内を散策するだけで、心身が清められる思いになります。

菅大臣神社

〒600-8444
京都市下京区菅大臣町187
商家の間に残る歴史
商家の間に残る歴史商家の間に残る歴史

秀吉によって寺が集められた界隈へ

 四条通を越え、錦小路、蛸薬師を過ぎ、六角通を上ルと通りの右手(東側)の道端に、「茶人珠光 織田信雄 加藤清正 紀州藩邸 古蹟」と刻まれた石碑があります。

 この付近には「柳水」という銘水が湧き出ていて、茶道の祖である村田珠光(1422~1502)がこの水を使って茶を点てたと思われます。

 織田信雄(1558~1630)は織田信長の次男で、ここに屋敷を構えていました。その後屋敷は肥後藩の加藤清正の邸宅となり、さらに1680年代から明治初期まで紀州和歌山藩の藩邸があり、時空を超えて、一柱の石碑にこの地の歴史が刻まれています。それほどこの地は人気があったということでしょう。

茶人珠光・織田信雄・加藤清正・紀州藩邸古蹟

京都市中京区西洞院通三条下る東側付

 三条通を西に入り、南側の建物の狭間に「正五位長尾郁三郎武雄旧邸」と刻まれた石碑がひっそりと建っています。,

 長尾郁三郎(本名・武雄/1837~1864)は幕末の尊王の運動家で、天保8年に京都の綿商人の家に生まれ、江戸で国学を学びます。文久3年2月22日(1863年4月9日)、等持院に収められていた室町幕府初代将軍足利尊氏をはじめとする足利三代の木像、首、位牌などを持ち出し、鴨川河原に晒されるという「足利三代木像梟首事件」が起こります。足利氏を討つという名目で、実は現体制の徳川幕府を倒そうとする換喩的な尊攘活動であり、事件に関わった多くの浪士が幕府によって処刑されます。

 長尾郁三郎も関与したとして、六角牢に投獄されます。そして翌年の元治元年(1864)7月禁門の変が起こり、京の町に火災が広がります。「どんどん焼け」と呼ばれる大火で、その火が六角牢にまで及ぶことを懸念した幕府の役人は、過激な志士たちが脱獄するのではないかと33人もの収容者を斬罪に処してしまいます。その中に、長尾宇郁三郎も含まれていました。結局、火は六角牢まで回って来なかったそうです。

 幕末にはこうした悲話がいくつも残っているようで、長尾郁三郎旧邸の石碑から歴史物語が始まります。周囲の建物が変化したため、見つけるのに苦心する石碑ですが、歴史を知る上で探し出したいものです。

正五位長尾郁三郎武雄旧邸

京都市中京区三条通西洞院西入南側付近

 御池通を北へあがってすぐのところに「御金神社」があります。歩いていくと、金色に輝く鳥居が見え、いつも多くの人たちでにぎわっていますのですぐに見つけられるでしょう。「御金」と書いて「みかね」と読み、金山毘古神、天照大神、月読神を御祭神とする神社です。

 御金=お金にまつわる神社であることから、投資や資金運用の成功から、競馬、宝くじなどの勝利当選を祈願する人が多くおられます。元来は鉱山の神であることから、さまざまな機械製造の安全を護る神でもあり、また、家を建てる際の建設工事、転宅、方位の厄除け、旅行の安全を守る大神が祀られています。一度参拝してみたいものですね。

御金神社

〒604-0042
京都市中京区西洞院通御池上る押西洞院町618
京都守護職上屋敷跡へ
京都守護職上屋敷跡へ京都守護職上屋敷跡へ

京都守護職上屋敷跡へ

 平安時代の西洞院通は、二条通から上(北)は朝廷に勤務する役人たちの邸宅などが集合していて、南側は商人や町民が暮らすエリアに分割されていました。通りには今も整然とした町家風の建物が軒を連ねています。丸太町通を越え、下立売通あたりに「小篠長兵衛旧宅跡」という立派な石碑が建っています。

 初代小篠長兵衛は、明暦年間(1655)に伏見において染物業を営みはじめ、6代目長兵衛になってから、この西洞院通下立売下ルで楽器の弦の製造を始めます。嘉永2年(1849)のことです。弦とは、雅楽に使う楽器である琴、琵琶、三絃(三味線)、月琴などの弦で、現在は株式会社化し「鳥羽屋」という屋号で製造をおこなっています。

 琴や三味線の音色を耳にすることはあっても、使われている弦のことまでは知らないものですが、こうして京都で和楽器の弦を造り続けている会社があることに、京都の奥深さを感じます。

小篠長兵衛旧宅跡

京都市上京区西洞院通下立売下る東側付近

 下立売通まで来ると、目の前に京都府庁の広い敷地が見えてきます。ちょっと府庁舎内に足を踏み入れてみましょう。

 門の前に立つと、ルネサンス風の洋館が目に飛び込んできます。京都府庁旧本館です。明治37年(1904)、松室重光(まつむろ しげみつ/1873~1937/ネオ・ルネサンス様式の建築物の設計を手掛けた建築家で、京都ハリストス正教会聖堂なども松室の設計)設計により建築されたもので、内部には議場もあり日本最古の議場であるといわれています。建物内部の造作や家具なども貴重なものが多いそうです。

 ここ京都府庁の敷地は、かつて京都守護職上屋敷跡でした。幕末期の文久2年(1862)、江戸幕府が京都守護職を設置し、会津藩主松平容保が就任しました。その翌年、約3万坪に及ぶ土地に守護職屋敷を造営し、京都所司代・京都町奉行所の上位に位置しました。しかし慶応3年(1867)、徳川慶喜は朝廷に政権を返す大政奉還をおこない、引き続き明治天皇による王政復古の大号令により、京都守護職や所司代は廃止され、今はその跡に石碑が建っています。

京都府庁旧本館

〒602-8041
京都市上京区藪之内町下立売通新町西入ル
武者小路通が終着点

武者小路通が終着点

 北へ進んでいくにつれ、西洞院通は少しずつ細くなっていきます。一条通を越えたところに「大峰寺跡」という小さな門と案内看板が立っています。

 この辺りは古くは大峰野と呼ばれ、平安時代には大峰寺なる寺院があったそうです。大峰殿とも呼ばれ、大和吉野の大峰山の名を冠したものと推測され、修験者=山伏の道場も兼ね備えていたのではないかといわれています。

 また別説では、三条天皇の中宮である藤原妍子(ふじわらのけんし・きよこ/994~1027)が没した際、この寺の前野で火葬にされたことから、その供養のために建てられた火葬塚ともいわれています。妍子は藤原道長(966~1028/平安時代の中期の公卿。文学愛好家で紫式部や和泉式部を庇護した)の次女で、34歳で亡くなります。それを嘆いた道長は、「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと『栄花物語』(えいがものがたり/平安時代の歴史物語。作者不詳)に記されています。

 その後、寺は荒廃し、現在では2mもある巨大な花崗岩の宝塔を残すのみですが、地域の人たちに大切にされています。

大峰寺跡

〒602-0925
京都市上京区西之口町235

 武者小路通まで来ました。出発点の近鉄「十条駅」から直線距離で約6キロ。途中、寄り道をしたので8~10キロ程度の散策になったのではないでしょうか。西洞院通はこの武者小路通で終点となります。

 茶道の武者小路千家の「官休庵」が通りに面して、いい佇まいを見せています。官休の意味は判然としていないそうですが、ホームページの解説によると「安永三年(1774)、一翁の百年忌の時に大徳寺第三百九十世眞巌宗乗(しんがんそうじょう)和尚により書かれた頌には、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」(茶に専念するために官〔茶道指南〕を辞めたのであろう)と解釈されています。」と書かれています。これが「官休庵」の由来です。

 武者小路通からは、西の小川通か、東の新町通を北へ進めば今出川通に出ます。そこからは市バスがあちこちへと伸びています。

官休庵

〒602-0936
京都市上京区武者小路通小川東入613


(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

関西城紀行TOPにっぽん紀行TOP
《 広告に関するお問い合わせはこちら 》
株式会社日豊社
〒530-0044 大阪市北区東天満1丁目12番13号 IAG天満ビル
TEL 06-6357-3355 FAX 06-6357-3406

PAGEトップへ