一日散策 関西歴史紀行 【上立売通 Kamidatiuri】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN35 上立売通 Kamidatiuri

上立売通 Kamidatiuri
上立売通 Kamidatiuri上立売通 Nishinotouini

 上立売通は、「かみだちうり どおり」と読みますが、京都の人たちの発音は「かみだちゅうり どおり」となっています。同じように、中立売通、下立売通も「~~ちゅうり」と発音することから、日常会話では「ちうり」より「ちゅうり/ちゅーり」と発音するほうが音韻的にも利便性があるということなのかもしれません。大阪市にも「立売堀」という地名があり、こちらは「いたちぼり」と発語します。もともとは伊達藩があったことから「伊達堀」と呼ばれていましたが、「伊達」を「いたち」と読み、そのまま定着してしまったようです。

 今回はこの上立売通を歩きましょう。

 上立売通は、西は馬代通から、東は寺町通までの東西を結ぶ通りで、途中の六軒町通から平野道までの区間は中断されています。通り名の由来は、室町時代に室町通と交差する界隈に、店を構えることなく立ち売りで商売をする人たちが多くいて、「立売ノ辻」と呼ばれたことによります。

 当時の京都には、上京と下京があり中京は存在していませんでした。下京の繁華街が四条通と新町通の交錯するあたりであるのに対し、上京でもっとも賑わいを見せていたのがこの立売ノ辻だったといわれています。幕府が町民に御法度などの告知をおこなう「高札場」も設けられていたことから、さぞ多くの人たちがこの通りを行き来していたことでしょう。立売で販売されていたのはおもに呉服や糸などの衣類関係で、この通りが西陣を貫いていることに起因しています。

 通り沿いには古くからの商家が建ち並び、神社や寺院なども点在しています。通りがあるのは「西陣」。応仁の乱の際に陣が張られた場所で、西軍の総大将・山名宗全の邸宅址の石碑があります。また高級絹織物の西陣織発祥の地でもあり、かつて通りを歩けば機織りの音が聞こえてきたものですが、今は時折聞こえてくる程度です。

 烏丸通と交差する付近には相国寺、同志社大学などがあり、京都御苑も近いことから、緑豊かな自然の風景が広がっています。相国寺を抜けて寺町通に突き当たり、上立売通は終点となります。寺社仏閣が並び、静かな住宅地が続く通りで商店などはあまり多くありません。道幅もさほど広くなくて、車は通りますが比較的歩きやすい通りです。

 そんな上立売通を今回は西大路通から歩き始めてみましょう。

桜の名所・平野神社
桜の名所・平野神社

桜の名所・平野神社

 平野神社の歴史は、平安京遷都の際に、平城京(奈良)から今木神(いまきのかみ)、久度神(くどのかみ)、古開神(ふるあきにかみ)、比賣神(ひめのかみ)を遷座・勧請したことにはじまります。したがって創建年は遷都と同じ延暦13年(794)になり、京都の歴史と共に歩んできた由緒正しい神社です。

 平野神社といえば「桜」です。平安時代、花山天皇が桜の木を多く植えられたことから、以来「桜の名所」として現代にまで引き継がれています。神社の装飾品などに付ける神紋も桜です。日本人にとって桜は穀物神が宿る花として古くから大切にされてきました。菊の花とともに国を代表する花として愛でられています。ところが奈良時代の貴族たちは、中国大陸から伝来した「梅」が好まれ、花見といえば「梅の花」だったそうです。しかし平安時代になると梅から桜へと人気が移ります。

 “ひさかたの 光のどけき春の日に 静心なく花の散るらん”

「小倉百人一首」にも収められている紀友則(きの とものり)の歌ですが、「太陽のゆるやかな日差しがのんびりと降りそそいでいるのに、なんで桜の花びらはせわしなく散ったりしているんでしょうね」というような意味合いです。平安貴族は桜の花に人間の人生を重ね合わせているのかもしれません。

 平野神社では、毎年4月10日に桜祭りが開かれ大いににぎわいを見せます。桜の品種も約50種・400本と多く、さまざまな姿かたちの桜花を眺めることができます。

平野神社

〒603-8322
京都市北区平野宮本町1
午前6時~午後5時
http://www.hiranojinja.com/

 平野神社から東に向かって歩き出すと、右手に北野天満宮の杜がある辺り、路傍に「延命地蔵大菩薩」という提灯を掲げ、多くの石仏が鎮座されている祠があります。案内板の文字が積年の風雨で薄まり、明確に読み切れませんが、豊臣秀吉が築いた御土居(おどい)と関係があるようです。花崗岩製の阿弥陀仏など、可愛らしい御姿と御顔に見とれてしまいます。

千本釈迦堂から浄福寺通界隈五條天神社とその周辺石碑
千本釈迦堂から浄福寺通界隈

千本釈迦堂から浄福寺通界隈

 そのまままっすぐ歩くと、西陣病院などによって道は途絶えていますが、一本南(下)の五辻通か、一本北(上)の寺之内通を千本通に向かって進んでいきましょう。五辻通に沿って千本釈迦堂(大報恩寺)があります。真言宗智山派の寺院で、12月の京都の風物詩である大根焚きで有名ですね。この釈迦堂の境内を抜けて千本通へと歩いていきましょう。

 千本通に上立売通の案内看板が見えます。この辺りが西陣の中心部でしょう。たたずまいのいい町家が軒を連ねています。やがて、美しい石畳の道にめぐり会います。浄福寺通です。以前この「関西歴史紀行」でも取り上げた、石畳がつづく雰囲気のいい通りです。

 瓦を重ねた壁が特徴の本隆寺。本堂の瓦を葺き替える際、古瓦を土壁に埋め込んだもので、眺めながら歩いているだけで楽しい気分になります。すぐ北側には西陣聖天宮の雨宝院(うほういん)があります。弘法大師空海を開基として、北向山雨宝院大聖歓喜寺と号する歴史ある寺です。

 大宮通を越えると、旧西陣小学校の建物が見えます。西陣小学校は明治2年12月2日、上京第五番組小学校として創立され、明治17年になって西陣の地名からこの校名となりました。モダンな校舎は戦前に建てられたもので、校門も味わい深い雰囲気を漂わせています。

山名宗全邸宅址から相国寺へ
山名宗全邸宅址から相国寺へ

山名宗全邸宅址から相国寺へ

 西陣の地名は、応仁の乱の際にこの地に陣を張ったことに由来しますが、その西軍の総大将であった山名宗全(やまな そうぜん)の邸宅址の石碑が、堀川通の手前、上立売通の一本南(下)にあります。住宅地の中にひっそりと建てられていますので、見つけるのにちょっと迷いますが、石碑を探す愉しみは、幼い頃の宝探しゲームを思い出すようでワクワクしてしまいますね。

 山名宗全(1404~73)は、但馬国(現在の兵庫県北部)出石で生まれ、赤ら顔であったことから「赤入道」と呼ばれたそうです。

 応仁の乱は室町幕府八代将軍の足利義政が、弟の義視(よしみ)を後継者にしようとしますが、その後、義政夫人である日野富子(ひの とみこ)に義尚(よしひさ)が生まれたため、将軍職をめぐる争いが起こります。また、守護大名の御家騒動もからんで、大きな戦いとなったのです。

 この戦いによって戦国時代が始まったといわれ、約11年間戦火が続いたことで京都の町は焼け野原となってしまいます。上御霊前通篇でご案内した上御霊神社で、この戦いの前哨戦があったと記していますので、そちらも併せてお読みください。

山名宗全邸宅跡

〒602-8422
京都市上京区山名町799

 堀川通を越えてしばらく行くと、美しい赤レンガ造りの建物が見えてきます。同志社大学の学舎です。同志社大学は明治8年(1875)に新島襄によって創立され、翌年には現在の今出川上ルの地にキャンパスを構えました。この地には薩摩藩邸があり、現在も烏丸通の今出川を少し上った学門の脇に、薩摩藩邸跡の石碑が建っています。

 烏丸通まで来たら、上立売通を少し北へ行ったところに「藤井右門(うもん)宅跡」という案内板があります。江戸中期の尊王論者・藤井右門(直明)の居宅で、右門は越中国射水に享保5年(1720)に生まれ、成人して京都に出てからは尊王論を学びます。しかし、幕府は不敬罪として右門を処刑します。「明和事件」として記録されている尊王論者弾圧事件です。右門達の尊王論はその後に起こる明治維新の思想の根幹となったのです。江戸中期ではなく、幕末に右門が生きていたら……と、ふと空想してみたくなります。

 烏丸通を越えると相国寺(しょうこくじ)が見えてきます。臨済宗相国寺派の大本山で、開基は金閣寺を建てた足利義満、初代住職となったのは、苔寺や天龍寺の庭を作庭した夢窓疎石(むそう そせき)。京都五山の第2位に列せられる格式ある寺で、五山文学をはじめ、日本画家の周文(しゅうぶん)や雪舟(せっしゅう)もゆかりがあります。また、塔頭の瑞春院(ずいしゅんいん)は「雁(がん)の寺」として知られています。小説家の水上勉(みずかみ つとむ/1919~ 2004)が雛僧時代にここで過ごし、後に『雁の寺』という小説を執筆し、直木賞を受賞します。推理小説の香りがする物語で、1962年には若尾文子主演で映画化もされています。

 相国寺の境内は車が走らないので、ゆったりと周囲の建物を眺めながら歩けます。

相国寺

〒602-0898
京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
http://www.shokoku-ji.jp/s_about.html
幸神社と阿弥陀寺
幸神社と阿弥陀寺商家の間に残る歴史

幸神社と阿弥陀寺

 相国寺の東門抜けると、薩摩藩士の墓所があります。蛤御門の変で長州藩と戦い亡くなった兵が眠る墓所で、「甲子役 戌申役 薩摩戦死者墓」と刻まれています。甲子役が蛤御門の変で、戊申役は戊辰戦争です。いつも手入れが行き届いていることから、墓を守る人たちがおられるのでしょう。

 寺町通の少し手前を南へ進んでいくと、「幸神社」という小さな神社があります。「しあわせじんじゃ」と読んでしまいそうですが、実は「さいのかみのやしろ」と読みます。創建されたのは天武天皇の白鳳元年(661)といわれ、平安京遷都と共に現在の地に、御所の鬼門除け守護神として造営されました。主祭神は猿田彦大神で、元来伝わる道祖神信仰と習合して、「縁結びの神」として多くの人たちに崇められています。

 また歌舞伎の祖である出雲阿国がこの神社の巫女として仕えていたとあり、芸能上達を願う人たちが今もお参りに来ます。「幸神社=さいのかみのやしろ」という名を口ずさむだけで、何だか幸せな気持ちになってきます。自分の幸福だけでなく、日本中、世界中の人たちの幸を願ってみてもいいかもしれませんね。

幸神社

〒602-0814
京都市上京区寺町通今出川上る西入 幸神町303
拝観:自由

 寺町通で道は行き止まりとなります。この寺町通を少し上(北)へ行くと、「織田信長公本廟」という石碑が建っています。浄土宗阿弥陀寺です。天文24年(1555)玉誉清玉が近江国坂本に創建し、やがて大宮に移築した後、現在の地に移りました。

 天正10年(1582)、織田信長が本能寺で斃れると、清玉上人が信長の遺灰を寺に持ち帰ったと伝えられています。本能寺の変で信長の亡骸が発見されなかったという言い伝えがあり、そのことから信長生存説などが語られますが、遺灰を持ち帰ったということから、明智光秀に攻め込まれ、本能寺に火が回り、自害した信長は火に包まれたというのが事実に近いように思えます。

 その後、光秀を山崎で討った秀吉が、葬儀のために信長公の遺灰を望んだところ、清玉はこれを拒否します。信長の後継ぎを秀吉が画策していると考えたためです。秀吉は怒り、阿弥陀寺の寺域を取り上げ、現在の地へ移築させてしまいます。

 信長ファンなら是非とも訪れたい寺ですね。

阿弥陀寺

〒602-0802
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
午前9時~午後4時

 上立売通は、寺町通沿いにある日蓮宗本満寺が起点となって西に延びている通りで、西から歩いてきましたのでここが終点となります。

本満寺

〒602-0802
京都市上京区 今出川上2丁鶴山16
午前9時~午後5時
出町桝形商店街を抜けて帰路へ

出町桝形商店街を抜けて帰路へ

 寺町通を南へ歩くと、出町桝形商店街の入口が見えてきます。いろいろな店が並んでいるので、食事をしたり、お土産を買ったりできます。

 この商店街に2017年の暮れ、「出町座」という客席数48席と42席の2スクリーンの映画館が誕生しました。1階がカフェと書店になっていて、2階と地階が映画館です。もし時間が合えば映画を。カフェでくつろいでいくのも楽しいですね。

出町座

〒602-0823
京都市上京区今出川通出町西入上ル三芳町133
https://demachiza.com/
075-203-9862



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

関西城紀行TOPにっぽん紀行TOP
《 広告に関するお問い合わせはこちら 》
株式会社日豊社
〒530-0044 大阪市北区東天満1丁目12番13号 IAG天満ビル
TEL 06-6357-3355 FAX 06-6357-3406

PAGEトップへ