一日散策 関西歴史紀行 【大徳寺通(紫竹街道) daitokuji】

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京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN35 大徳寺通(紫竹街道) daitokuji

大徳寺通(紫竹街道) daitokuji大徳寺通(紫竹街道) Nishinotouini

 御所から見て北西方面に紫野という地域があります。平安時代、貴族たちの狩猟場だったところで、北野、平野、上野、蓮台野、内野、点野に紫野を合わせて七野(しちの)と呼ばれています(点野、上野については、禁野、柏野とすることもある)。広大な野が広がり、野生の動物や鳥類が跋扈していたのでしょう。

 時代は変遷し、正和4年(1315)頃、大燈国師宗峰妙超がこの紫野の地に小さなお堂を建てます。これが臨済宗大徳寺派大本山である大徳寺となります。現在、24を数える塔頭を有し、戦国武将の菩提寺や墓などが造られています。また、茶の湯文化と禅は深い関係があることから、侘茶の村田珠光をはじめ、武野紹鴎、千利休、小堀遠州などが大徳寺に関わり、なかでも有名な話として、利休が境内に建てた山門にみずからの木像を置いたことで豊臣秀吉の怒りを買い、切腹するという因果を作ってしまいます。

 今回歩く「大徳寺通」は、大徳寺の名が冠されていますが、大徳寺の参道というわけではなく、大徳寺の東側を通る道、ということで名づけられた通りです。地元に暮らす人々はこの通りを「旧大宮通り」と言います。これは、京都駅よりさらに南、伏見区の上鳥羽あたりを終起点とする「大宮通」の北の端が、昭和の初め頃まで北大路通で行き止まっていて、そこを大宮頭(おおみやがしら)と呼んでいました。その後、現在の「新大宮通」が完成し、多くの商店が並ぶ通りになり、北大路通より北へ進んでいた細い大宮通と区別する意味で「旧大宮」と呼ぶようになったのです。

 また、この通りには「紫竹(しちく)街道」というきれいな響きを持つ呼び名もあります。紫野を少し北へ上るエリアが紫竹という地名です。仏教の僧衣で紫は高貴な色といわれ、『源氏物語』を書いた紫式部の墓もこの界隈にあるなど、紫の文字がこの辺りには多く登場します。パープルのファッションで出かけてみてもいいでしょうね。

 京都市バスの「大徳寺前」バス停からスタートしましょう。

『源氏物語』に登場する雲林院
『源氏物語』に登場する雲林院『源氏物語』に登場する雲林院

『源氏物語』に登場する雲林院

 「大徳寺前」のバス停を降りて、大徳寺通を少し南へ下ると雲林院(うんりんいん)があります。この寺は大徳寺が創建されるよりかなり以前からこの地にあって、もとは淳和天皇(786~840)の離宮であったそうです。平安京遷都後、すぐに造られた離宮ということになります。やがて雲林院と名付け、仏寺に改めてから堂塔が造営され、桜の名所となって都人を集めたようです。

 『枕草子』には、賀茂祭の還立(かえりだち/祭の後、舞人たちが天皇の前で歌舞を奉じること)を見物するため、朝早くから物見車が並んだと描写されています。今でいう、交通渋滞ですね。

 また、『源氏物語』の「賢木(さかき)」では、逢ってくれない藤壷に心悩ます光源氏が、世を儚んで出家しようとこの雲林院に籠る話が書かれています。物語にしばしば登場する雲林院。現在は、静かな庭の情景が広がっています。

雲林院

〒603-8214
京都市北区紫野雲林院町23

 ふたたび北大路通に戻ると、大徳寺の白い壁が見えます。東側の道が大徳寺通です。 大徳寺東門をくぐると、利休木像の山門「金毛閣」がそびえ建っています。時間があれば大徳寺境内にある塔頭を訪ねてみてください。常時公開されている塔頭もあり、春と秋には特別公開される塔頭もあります。

『源氏物語』に登場する雲林院
『源氏物語』に登場する雲林院『源氏物語』に登場する雲林院

 大徳寺の門前に、昔ながらのお土産物店が並んでいます。店頭に「大徳寺納豆」が並んでいます。これは、大徳寺住職であった一休宗純(一休さん)が製法を考案したと伝わるもの。僧侶の保存食として食べられていたもので、大豆に“はったい粉”をまぶし、発酵したら塩水に浸して、真夏の炎天下で何度も撹拌して造ります。この作業は僧侶の修行の一つでもあるそうです。

 ふつうの納豆とは色が大いに違い、酸味と熟した塩味があり、口に含むと独特の味わい深さが広がります。あたたかいご飯にも、甘い生菓子のお伴にもぴったりです。携帯して散策の途中、一粒ずつ口に放り込むのもいいかもしれませんね。大徳寺納豆のほかに、「一休こんぶ」や「ちりめん山椒」など、お土産にするにはいい品があります。

松田老舗

京都市北区紫野下門前町37 075-492-4679
午前9時~午後6時 無休
むかしの街道を思わせる町並み
むかしの街道を思わせる町並み

むかしの街道を思わせる町並み

 大徳寺の敷地に沿って大徳寺通を進みます。通りに沿って昔ながらの家々が建っていて、旧街道筋の雰囲気が漂っていますね。豆腐屋やレトロな雰囲気の店が軒を連ね、歩くのが楽しくなります。

 總神社天満宮の鳥居が見えてきました。創建された年代は不明ですが、白鳳年間(650〜654)には存在していたといわれ、平安京遷都以前から小さな祠があったのかもしれません。上賀茂神社(賀茂別雷神社)の境外38社のひとつで、祭神は天照大神の御子である天穂日命(あめのほひのみこと)、八幡大神、天満大神、源義朝神霊の4柱で、地域の人たちに大切にされている社なのでしょう、すがすがしい気配が漂っています。

 この辺りの地名は紫竹で、源氏とのゆかりが深く、源義朝の別邸が建てられていたともいわれています。義朝の妾である常盤御前がこの地で牛若丸を出産したともいわれ、この界隈のことを「常盤の森」と古図には記されているそうです。

總神社天満宮

〒603-8206
京都市北区紫竹西南町46
むかしの街道を思わせる町並み
むかしの街道を思わせる町並み

 さらに北へ歩いていくと、落ち着いたたたずまいの古い家々が続き、北山通に出ます。

 北山通は戦前から建設が始まり、1985年に全線が開通した新しい通りで、京都の幹線道路としては最北端にあります。十二間幅(約22m)の道幅があることから、地元では「十二軒通」とも呼ばれています。東の京都府立植物園あたりにはお洒落なブティックやレストランなどが並び、白川通と同様、人気のストリートです。

 道はさらに細くなり、通りに沿って貴船神社、久我神社などがつづきます。

 貴船神社といえば鞍馬にある神社を思い浮かべてしまいますが、京都市内には上賀茂とここ紫竹にも同じ名前の神社があります。この貴船神社も上賀茂神社の境外摂社で、鎌倉時代の初めには建立されていたようです。 貴船とは、水の神であり雨ごいの神として古くから信仰されてきました。農業や生活水はなくてはならないものなので、昔人は乾期がつづくとこの社にお詣りしたのでしょう。ここも、地域の人たちからとても大事にされているようで、境内に足を踏み入れると清浄な空気に包まれたように感じます。

 また、八咫烏(ヤタガラス)で有名な久我神社については、大宮通編で詳しくご案内していますので、ご参考にしてください。

貴船神社

〒603-8426
京都市北区紫竹西北町55

久我神社

〒603-8412
京都市北区紫竹下竹殿町
大力餅食堂で吉野丼を
大力餅食堂で吉野丼を

大力餅食堂で吉野丼を

 やがて、玄以通という東西の通りに出合います。ここを少し西へ行くと「大力餅」と大書され「大力食堂」と看板を上げた大衆食堂があります。

 京都をはじめ、京阪神地区には「~~餅食堂」という食堂をよく見かけます。たいがい店頭のショーケースに作りたての「いなりずし」や「おはぎ」「赤飯」などが並べられています。メニューはうどん、丼物などで、うれしい値段でおなかがいっぱいになることから学生たちに人気があります。千成餅食堂や大力餅食堂といった名前なのですが、ここの食堂は「大力食堂」となっています。

 この店でいただける、おいしい料理をご紹介しましょう。それは「吉野丼」です。これは吉野葛を使った餡かけ丼で、材料には九条ネギと刻んだきつね(油揚げ)が使われ、生姜の風味がポイントとなっています。現在は吉野葛が稀少になり片栗粉を使っていますが、独特のとろみがなんともいえない味わい深さがあります。

 吉野丼という名の丼、おそらく東京や博多、名古屋の方はご存知ないでしょう。店の人に聞いたところ、「うち以外でも京都で出しているところはありますよ」とおっしゃっていました。京都独自の丼なのでしょう。寒い季節だけでなく、ちょっとほっこりと温まりたいとき、この吉野丼は最高においしい一品です。

 また、京都らしいものとして「衣笠丼」があります。甘辛く炊き込んだ油揚げと青ネギを卵でとじた丼で、大阪では「きつね丼」と同じような感じですが、「きぬがさ」という金閣寺の西の山の名前が付けられていることから、京都に来たらぜひとも食べたいメニューですね。ちなみに明治時代中頃まで、東京吉原の歓楽地で「あぶ玉丼」の名前で人気があったそうです。

 散策の途中、ぜひ「大力食堂」で吉野丼や衣笠丼を召し上がってください。

大力食堂

〒603-8413
京都市北区紫竹東大門町19-2
午前11時~午後4時
075-491-6367 毎週木曜日
大力餅食堂で吉野丼を

 玄以通を少し上ると三差路があり、その中央に道標の石碑が建っています。 「右、上賀茂貴布祢くらま道 左、にしがも神光院を経て雲ケ畑へ」と刻まれています。この石碑は非常に古いもので、「寛永十四年洛中絵図」に描かれているそうです。寛永十四年は1637年ですから江戸時代の初めの頃です。

 右方向へ進めば賀茂川が流れていて、越えたところに上賀茂神社があります。そしてさらに進むと三千院で有名な大原、朽木を抜けて若狭へと繋がる道、鯖街道になります。左方向へ進むと、雲ケ畑から京北、周山街道から、やはり日本海側へ抜ける道となります。

 話は逸れますが、朽木の地名が出て来たら、織田信長を思い起こした歴史好きの読者もおられることでしょう。

 元亀元年(1570)4月、信長は羽柴秀吉、徳川家康らの軍勢を率いて越前の朝倉氏を攻めます。一乗谷に向かっていた途次、信長の妹婿の浅井長政が朝倉氏に寝返り、信長勢は挟み撃ちに陥ります。そしてただちに京への撤退を決めた信長は、朽木元網などの助けを受け、朽木から葛川から大原を経て洛中に戻ることができたのです。この街道がその後の鯖街道になったのかどうか。戦国時代から開かれた古い街道です。

 おそらく、昔は多くの旅人がこの三差路まで来て自分の行く方向を決め、通り過ぎていったのでしょう。京都から日本海側へ抜ける道は今も山中を走る道が多く、京都という街の北側は深い山間地がつづいていたことが分かります。

 左の道が大徳寺通です。道は細くなっていき、御薗橋通を越えて西賀茂の果てまで連なっています。3~40年前まで西賀茂は広大な畑地が広がっていましたが、今は多くの家々が建ち並んでいます。

大力餅食堂で吉野丼を
大力餅食堂で吉野丼を大力餅食堂で吉野丼を

 通りを外れて東に進み、賀茂川へやってきました。実は賀茂川の上流に「柊野堰堤(ひらぎの えんてい)」という小さな堰があり、気持ちのいい風景が広がっているので見に出かけましょう。

  賀茂川の河原を歩いていくと約20分程度で柊野堰堤に到着します。この堰堤(ダムとはいわず、堰堤というのは、堤の高さが15m以上のものをダムと呼ぶからで、この堰堤は堤高7m)は、昭和10年に京都を襲った豪雨で、賀茂川に架かる41の橋のうち32橋が流され、市街地が浸水したことで、上流からの土砂流出を防ぐため昭和16年に完成したものです。

 山紫水明の都・京都も、豪雨などの自然災害に襲われることも多く、近年では2013年9月に桂川が氾濫し、渡月橋や嵐山界隈に浸水したことが記憶に新しいです。京都の街の周辺部には、こうした洛中を守るさまざまな設備が整えられています。

 柊野の地名は、ヒイラギの樹が多く繁茂していたためという説と、上賀茂神社所領地が畑地に開墾されたため「ひいた野」や「新羅野」が転訛したという説があります。ちなみにアップル社のmacに搭載されている高品位の書体群れ「ヒラギノ」は、この柊野の地名がその由来だそうです。

 帰路は、ふたたび河原の小径を歩いて御薗橋から上賀茂神社前へ。ここから京都市営バスに乗れば、京都駅にも、四条河原町へも行けます。

柊野堰堤

〒603-8815
京都市北区 西賀茂中島町



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

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