一日散策 関西歴史紀行 【油小路通 Aburanokoji】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN40 油小路通 Aburanokoji

油小路通 Aburanokoji
油小路通 Aburanokoji

 油小路通は、平安京の左京を南北に貫く油小路にあたり、堀川通の二筋東側になります。北は、北区の加茂川中学校のある竹殿南通から、南は伏見区の三栖公園あたりまで続く非常に長い通りで、京都の通りで最も距離のある千本通(約17km)に匹敵します。今回は、2回に分けてこの通りを歩いてみましょう。

 油小路は鎌倉時代頃まで、三条通以北には公卿や武家屋敷が建ち並んでいました。室町時代になると下京あたりに多くの商家が軒を連ねるようになり、酒屋や油類を販売する店が多くありました。左京の西の端であり、ここから西側のエリアは洛外となっていました。祇園祭の山鉾を出す地区もこの油小路を西の果てにしていたそうです。豊臣秀吉が京都大改造をおこない、聚楽第を築いてからは、京都御所と聚楽第の中央部を走る通りとして賑わいをみせます。その名残は今も色濃く残り、たたずまいのいい町家や商家が散見できます。

 今回、出発起点となる伏見の三栖公園は、京阪電車の「中書島駅」から西にしばらく歩いたところにありますが、その道中には有名な坂本龍馬が襲われた旅籠寺田屋があり、多くの龍馬ファンが訪れる観光スポットです。また、酒どころ伏見ならではの風情のある酒蔵や、京と大坂を結ぶ淀川から伸びる水路が今も残っていて、深緑色の美しい流れを見せてくれています。

 ただ、三栖公園からの道は高速道路と第二京阪道路が走る車道で、広い舗道は整備されていますが、散歩をするにはちょっときびしい環境です。ここでは、「中書島駅」を中心に龍馬ゆかりのエリアを散策し、鴨川に架かる南大橋を越えてJRと近鉄の「京都駅」までをたどるコースをご案内します。ただし、クルマの往来の激しい第二京阪道路沿いの舗道を歩くのがきびしいと感じるのなら、近鉄の「上鳥羽口駅」から「京都駅」まで電車移動するのがいいかもしれません。

 では、京阪の「中書島駅」から歩き出しましょう。

中書様と呼ばれた脇坂安治が由来の中書島
中書様と呼ばれた脇坂安治が由来の中書島

中書様と呼ばれた脇坂安治が由来の中書島

 中書島(ちゅうしょじま)という地名は、文禄年間に中務少輔(なかつかさのしょう)であった脇坂安治がこの附近の川の中の島に屋敷を建てたことから、中務少輔の唐名である「中書(ちゅうじょう)」様と呼ばれ、いつしか「中書島」となりました。脇坂がこの附近に暮らしたのは、豊臣秀吉が政治の中枢を伏見城に置いたためで、脇坂以外にも多くの武家がここ一帯に屋敷を構えました。

 秀吉が伏見城を拠点にしたのは、伏見が大坂と水運で結ばれた港であったからで、交通の便がいい場所だったからです。また、この一帯の水が良質であったことから酒造りがさかんに行われ、今も多くの酒造会社の酒蔵が点在しています。「灘の男酒、伏見の女酒」といわれるように、ミネラル成分を多く含む硬水の灘の酒に対して、伏見の酒は硬度が低く、ミネラル分が少ない水質なのでまろやかな味わいになっています。

 京阪電車「中書島駅」を降りると、「豊臣秀吉公本尊辨財天御像 長建寺是北一丁」「東 桃山御陵 乃木神社 十五丁」「北 寺田屋 三丁 大黒寺 七丁」と刻まれた古い石の道標が建っています。寺田屋とは、慶応2年(1866)、伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件の現場となった宿の名で、大黒寺とは、文久2年(1862)、薩摩藩の尊皇派志士を鎮撫して犠牲となった九烈士の墓碑を西郷隆盛が大黒寺内に建てたもの。

 この1柱に、安土桃山時代と幕末が一緒になって刻まれているのが面白いですね。
裏面を見ると「昭和三年秋稟京都三宅安兵衛遺志建之」とありますが、三宅安兵衛(1842~1920)は、京都のために府内に約400基にものぼる名所旧跡の道標を建立したことで有名な人物です。安兵衛は大正9年に亡くなりますが、長男の清治郎が父の遺志を継いで建てました。京都周辺には三宅氏の建てた道標が今も数多く残っていて、道標愛好家にとってはたまらない魅力です。

 そして、駅の改札口のすぐ横で坂本龍馬さんが出迎えてくれています。並んで一緒に写真を撮っている女性たちがいました。今も龍馬ファンは大勢いて、ゆかりの地である伏見を訪れているんですね。

龍馬ゆかりの寺田屋
龍馬ゆかりの寺田屋

龍馬ゆかりの寺田屋

 慶応2年(1862)1月24日の午前3時頃、伏見奉行の役人が旅籠寺田屋の周囲を取り囲みました。部屋の中にいたのは坂本龍馬、そして妻女のお龍でした。湯を使っていたお龍が異変に気付き、二階にいた龍馬に慌てて伝えるやいなや、役人がなだれこんできました。有名な龍馬寺田屋襲撃事件です。昔の人々は、夜は早く寝てしまうものだと思いがちですが、龍馬たちは宵っ張りだったんでしょうね。

 龍馬はピストルで応戦しつつ裏から庭伝いに隣家へ逃げ込み、負傷しながらも500m以上先の濠川まで奔り、材木置き場の小屋に身を潜めます。

 その寺田屋が今もいいたたずまいで建っています。この建物は明治時代に復元されたもので、龍馬が投宿していた建物は、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったそうです。現在、庭となっているあたりに旅籠の建物があったようで、今も高い人気を誇る龍馬の足跡をたどるため、多くの人々が訪れています。

 近くの商店街は「龍馬通り」と呼ばれていて、土産ショップや飲食店が並んでいます。

住吉神社

〒612-8245
京都府京都市伏見区南浜町263
午前10時~午後4時(15時40分受付終了)
有料 月曜不定休 1/1~1/3
水の町・伏見と龍馬
水の町・伏見と龍馬

水の町・伏見と龍馬

 伏見の町のなかには幾筋もの水の流れがあり、小舟で遊覧している人たちがいます。この水路を遡行して、京都の真ん中、四条や三条の木屋町へと物資が運ばれたり、逆に京から大坂へ下ったりしていたのでしょう。やがて、龍馬が寺田屋から逃げ込んできた材木小屋のあった場所にやってきます。真新しい石碑があり、「坂本龍馬、避難の材木小屋跡(是より南東約50mの対岸)」と刻まれています。長州藩士の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行役人に囲まれ、ここまで逃げてきたのです。

 三吉慎蔵は、龍馬を材木小屋に残して伏見薩摩藩邸へ駆け込み、また、お龍も薩摩藩邸に知らせていたので、留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗を掲げた船を出して龍馬を救出したそうです。

 龍馬とお龍は薩摩藩邸で休息した後、西郷隆盛らとともに三邦丸で鹿児島へ向かい、傷の治療も兼ねて二人は霧島温泉に旅をします。これが日本最初の新婚旅行だといわれているのは有名な話ですね。

 三栖公園の手前、新高瀬川沿いに煉瓦造りの風格のある建物が見えてきます。松本酒造の酒造場で、大正11年(1922)に東山区から移転してきました。レトロ感満点の倉庫と煙突は、時代劇のロケーションに何度も使われています。「必殺仕事人」や「鬼平犯科帳」などの再放送をみると、この風景を眺めることができるかもしれませんね。

「坂本龍馬、避難の材木小屋跡(是より南東約50mの対岸)」石碑

京都市伏見区過書町(大手橋西詰北側)付近
油小路通を京都駅まで歩く
油小路通を京都駅まで歩く

油小路通を京都駅まで歩く

 第二京阪道路に沿って広い舗道があり、歩きやすい道が続いています。道に沿って飲食店や量販店などのロードサイド店が何軒も並んでいます。そんな中に、いきなり清らかな雰囲気の場所が現れます。「白河天皇陵・成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)です。

 白河天皇といえば、歴史の授業で習った「院政」という言葉を思い出す人も多くいらっしゃるでしょう。律令制が敷かれた平安時代、大原則である「公地公民」により我が国の土地と民衆は天皇のもの、天皇の子でした。しかし、天皇の下位にいる貴族たちは、何とか資産増やそうと抜け穴を見つけ財産を備蓄しようとします。それが「荘園」ということも歴史の授業で習いました。「荘園」とは今ふうにいうなら利権システムでしょうね。貴族たちにとっては都合のいいシステムです。ところがそれで困るのが天皇です。そこで、天皇は荘園整理令を出しますが、既得権益を守ろうとする貴族たちは抵抗します。

 そういう状況のなかに登場したのが白河天皇です。白河天皇は、幼い息子に天皇を譲位して「上皇」となります。「上皇になってしまえば政治的立場はフリーになるもんね」とは言わなかったでしょうが、そういう戦略を白河上皇は立案します。そしてその力を発揮するため、上皇自身、出家して熱心な仏教徒であったことから寺院をいくつも建立します。「勝」という文字が使われた寺が多かったようです。上皇は建てた寺に「荘園」を持たせます。貴族以外に僧侶も「荘園」を持つことができたからです。こうして白河上皇は50年近くにわたり、上皇としての立場を利用して、富を得、権力を保持したのです。それを「院政」と呼んでいます。ところが、この「院政」による制度にも抜け穴がありました。搾取されるだけに抵抗する武士の勢力が大きくなってきたことです。

 平安時代末期、東国武士集団の叛乱を起こした源頼朝は、武家政権である鎌倉幕府を開きます。……と、歴史の話を始めると長い文章になってしまいますのでこのあたりで終わりますが、「院政」を構築した白河天皇の陵(みささぎ)がここにあります。このあたりには、城南宮や鳥羽離宮跡が近く、白河天皇崚から鳥羽天皇陵へ足を伸ばしてみるのもいいでしょう。

 さらに北上して歩いていくと、京都南大橋という大きな橋が架かっています。川は鴨川です。周辺には、とても京都とは思えないような高架道路がうねるように走っています。だけど、橋の上から川を見渡せば、そこには鴨川の穏やかな風景画広がっています。

「白河天皇陵・成菩提院陵」

〒612-8445
京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町91
京都駅を越えて

京都駅を越えて

 京都南大橋をわたってからはクルマの往来の激しい道ですので、近鉄電車「上鳥羽口駅」から「京都駅」まで電車に乗るのがいいと思います。「上鳥羽口駅」は普通電車しか停まりませんが、終点の「京都駅」までは3つの駅です。

 車両の進行方向、左側の窓から世界遺産「真言宗総本山 教王護国寺」通称「東寺」の五重塔が見えます。高さ54.8mは木造塔としては日本一の高さを誇り、完成したのは9世紀末。当時、この高さの建造物は人々に尊厳と畏敬を与えたことでしょう。 「初めて京の都にのぼったんだが、東寺の五重塔にはビックラこいちまったぜ」 ……旅で上洛した江戸っ子ならそんなふうに言って、肝を冷やしたのかもしれません。

 京都駅の北側の塩小路通に出て、西に向かって進みましょう。大きな交差点がある堀川通の手前に、細い油小路通が伸びています。塩小路と油小路の交差する南手に「道祖神社」があります。

 街道から集落の入口付近に鎮座し、外界からの悪霊などを防ぐ目的の神社で、日本全国各地に同じ名前の神社があります。この道祖神社は、交通安全を守る猿田彦命を祀るとともに、芸能の神様である天鈿女命(あまのうずめのみこと)の2柱を夫婦神として祀っています。「双体道祖神」と呼ばれ、境内に手を取り合って仲睦まじい男女の石像があり、実にチャーミングな姿かたちをされています。油小路通はこの先、北区まで続きますから、歩いていく安全と、同行者が夫婦や恋人ならば、散策の際の円満をお願いしてみてはいかがでしょうか。

道祖神社

〒600-8234
京都府京都市下京区南不動堂町5−4
参拝自由



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

関西城紀行TOPにっぽん紀行TOP
《 広告に関するお問い合わせはこちら 》
株式会社日豊社
〒530-0044 大阪市北区東天満1丁目12番13号 IAG天満ビル
TEL 06-6357-3355 FAX 06-6357-3406

PAGEトップへ