一日散策 関西歴史紀行 【油小路通 Aburanokoji】

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京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN42 油小路通 Aburanokoji

油小路通 Aburanokoji油小路通 Aburanokoji
油小路通 Aburanokoji

 「油小路通その1」篇では、伏見区の三栖公園から南区を歩き、京都駅近くの「道祖神社」までをご案内してきました。今回の「その2」篇では、塩小路油小路を上って、中京⇒上京⇒北区と縦断していきます。途中、上立売通と紫明通の間は中断していますが、油小路通はさらに北へ進んで、上賀茂神社の手前、加茂川中学校の手前まで続いています。伏見・南・下京・中京・上京・北区と6つの区を縦断していることになります。京都市にはこのほかに山科・東山・左京・右京・西京区と全部で11の区割りですから、半分以上の区を油小路通は跨いでいることになるのですね。

 さて、塩小路通から上っていく油小路通沿いにはいくつかの事件の現場があります。いきなり物騒な話ですが、それらの事件が起こったのは幕末、新しい時代を迎えようとしていた時代のこと。当時、京都の町には新選組などの佐幕派と、薩摩・長州・土佐などの改革派が跳梁跋扈し、覇権を争っていました。そうした中、町中では多くの暗殺や襲撃など血なまぐさい事件が発生していました。油小路通沿いの町家や商家を舞台に繰り広げられ、なかでも有名なものとして「油小路七条の変」があります。

 新選組を脱退した伊東甲子太郎(いとう かしたろう)が、元の仲間であった新選組に刺殺された事件です。また、油小路花屋町下ルの天満屋では、坂本龍馬と中岡慎太郎と仲が良かった十津川郷士の中井正五郎が、龍馬と慎太郎を暗殺したといわれた紀州藩士の三浦休太郎を襲撃し、逆に新選組に斬りつけられた「天満屋事件」の現場などがあります。

 そうした事件の現場もありますが、もちろん京町家の風情ある建物や明治時代に流行した赤レンガ造りの建物など、見るべき価値のある風景が随所にあります。

 伏見区から続いていた油小路通。京都駅を越えて、塩小路通を北上していきましょう。北大路通まで歩いてきたら、おいしいタコスのお店もありますのでそちらもご案内しますね。

幕末の混乱を今も伝える
幕末の混乱を今も伝える

幕末の混乱を今も伝える

 油小路通には古くから酒屋や油商の商家が軒を連ねていたそうです。今もその名残ともいえる店がいくつか残っています。決して油屋が数多く集まっていたから油小路と呼ばれたわけではないようですが、出窓に「ごま油」や「あまに油」などが飾られた店があります。天保年間(1831~1845)に創業したという老舗で、おいしい「ごま油」が人気なんだそうです。

 そこからすぐのところに本光寺という日蓮宗のお寺があります。門前に石碑が建っていて、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれています。

 伊東甲子太郎(1835~1867)は、常陸国(現在の茨城県)に生まれ、水戸で剣術と水戸学を学んで勤王思想に傾注します。やがて江戸に出て、北辰一刀流の伊東道場に入門し、道場主の伊東誠一郎の婿養子となります。よほど剣術にすぐれた人物だったのでしょう。伊東の名を名乗るようになり、同門の藤堂平助とともに、新選組に加入して京都へやって来ます。その年が干支の一つである「甲子(きのえね/こうし/かし)であったことから、伊東甲子太郎と名乗ります。

 文武両道にすぐれた伊東はすぐに新選組の参謀となり、文学師範となります。新選組の思想は攘夷(外国を排除し鎖国を守ろうとする考え)であると同時に佐幕(徳川幕府を守る思想)であったのに対し、伊東は勤王思想(幕府を倒し天皇に忠義を尽くす考え)であったことから、新選組に所属することには矛盾するものがありました。

 慶応3年(1867)3月、伊東は薩摩藩監視と御陵を警備する任務を受けて新選組を脱退し、仲間とともに御陵衛士を結成します。東山にある高台寺月真院を拠点としたので「高台寺党」と呼ばれました。高台寺と聞いて豊臣秀吉の正室・北政所を思い出した方はきっと歴史好きでしょう。大坂の陣で落城する大坂城の上げる火煙が、ここ高台寺の高所にある場所から見えたともいわれています。

 伊東らが結成した御陵衛士に対し、新選組の近藤勇は斎藤一をスパイとして潜り込ませ、伊東らが近藤暗殺計画を立てていることが明らかになります。また、近藤が長州藩懲罰を推し進めるのに対し、伊東たちは寛大な処分を唱えたことなど、御陵衛士と新選組は対立していると近藤は考えたのです。そこである夜、近藤は七条にある妾宅に伊東を、相談事があると呼び出し酒宴を開きます。伊東としては、元の仲間である近藤の誘いであることから身の危険など考えず出向き、酩酊してしまいます。そして、伊東はその帰路、油小路七条で新選組の大石鍬次郎ら数名の隊士によって暗殺されてしまいます。34歳の若さでした。

 資料などによると、伊東たちには近藤勇暗殺計画はなかったそうです。新選組を脱退し、仲間たちに英語の勉強などを推奨していた伊東甲子太郎に対して、快く思わない感情が近藤の胸の内にあったのかもしれません。

 斬られた伊東の遺体はそのまま路上に放置されます。御陵衛士が引き取りに来るところを再度襲撃しようという計画で、このとき、新選組から一緒に脱退した藤堂平助も刺殺されてしまいます。本光寺は、伊東甲子太郎が息絶えた場所として、石碑が建てられています。幕末の京都を揺るがす大事件「油小路の変/油小路事件」として、今も歴史に記録されています。

本光寺

京都市下京区油小路通木津屋橋上ル油小路281
天満屋事件について
天満屋事件について

天満屋事件について

 油小路通は、東本願寺と西本願寺の間を通りますので、仏具や数珠などの店が多く建ち並んでいて、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の像が店先に立っている姿に出会います。私たち日本人にとっては、格別驚くことではありませんが、西洋からの観光客にとっては珍しいようで、銅像と並んで写真を撮っています。聞いてみたところ、「昔の日本人と一緒に記念撮影ができて面白いわ。SNSにアップするの」ということでした。この像の人物が鎌倉仏教の開祖であることなど、ご存知なかったようです。

 油小路花屋町下ルの路傍に「中井正五郎殉難之地」と刻まれた石碑が建っています。よく探さないと見つけられないほどです。ここは「天満屋」という旅籠があった場所で、紀州藩公用人である三浦休太郎が投宿していました。

 元紀州藩士で、坂本龍馬に心酔していた陸奥宗光(維新後は外務大臣などを務めた)は、龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺された際の犯人が、紀州藩士の三浦と大垣藩の井田五蔵ではないかと疑います。このことに危機感を抱いた紀州藩は、会津藩に救援を求め、新選組が天満屋の三浦を警護することになります。

 慶応3年(1868)の師走、陸奥宗光率いる海援隊と陸援隊15~16名が天満屋を襲撃します。三浦たちは座敷で酒宴を開いている最中だったといわれています。陸奥たちは、ターゲットの三浦を討つことはできませんでしたが、新選組隊士2名を刺殺、襲撃側の海援隊陸援隊の中井正五郎が返り討ちにあって絶命してしまいます。そのことを弔って石碑が建てられています。お地蔵様の横にあります。

 なお、この事件のことを司馬遼太郎が『花屋町の襲撃』(『幕末』収録/文春文庫)という作品で書いていますので読んでみてもいいでしょうね。

 通りに沿って、魅力的な石畳の辻子(路地)が伸びていたり、なつかしい牛乳箱が家の軒先に掛かっていたりする風景に出会います。古くからの町ならどこでもレトロで郷愁あふれる風景や道具、看板などに出会えますが、京都は大都市でありながら古いものを住民の方々が大切に残し、管理されています。新しく変わっていくことで美しくなる街があれば、変わらないことで美しさが磨かれ輝く町もあります。最近の京都も、町家の情景が失われ、新しい建物群が建築されてきてはいますが、古くからの物を大切にしつつ、変わらない美を保ち続けてほしいと思います。

「中井正五郎殉難之地」石碑

京都市下京区油小路通旧花屋町下る西側
歩きながら見つける愉しみ
歩きながら見つける愉しみ

歩きながら見つける愉しみ

 油小路通には、決して目立ったり、派手であったりしないものでも、よく見れば実に面白く興味深い場所や建物跡などが随所にあります。

 山本亡羊(ぼうよう)読書室旧蹟は、以前「醒ヶ井通」篇の際、寄り道コースとしてご案内した場所ですが、もう一度簡単に紹介いたしましょう。油小路五条上ルにある「山本亡羊読書室旧蹟」は江戸後期の医師で、毎日往診する良医でした。読書室とあるのは、膨大な書籍や史料が並んだ図書館のような場所だったのでしょう。この史料を読むために多くの人々がここに通ってきたといわれています。

 きれいに手入れされた町家が並ぶのも油小路通の特長です。そして北へ向かって進んでいくと「本能寺跡」という立派な石碑と案内板に出会います。織田信長が明智光秀の攻略により自害した本能寺があった場所です。現在の本能寺は、信長亡き後、豊臣秀吉によって寺町御池下ルに移築されましたが、本来はこの油小路通蛸薬師の地にありました。案内板にはこのように書かれています。

 『応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却された、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建。本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なることを忌み、能の寺を特に「能のヒヒの部分が【去】となる文字」と書くのが慣わしである。』

 火災を恐れ、火を連想させる「ヒ」の使用を避け、「去」という文字に変えて寺名にしていることから、よほど火災に恐れの気持ちを抱いていたのでしょうね。

本能寺跡

〒602-0947
京都市中京区元本能寺南町

 御池通を越えてしばらく行くと、左手、二条城の手前に「ANAクラウンプラザホテル京都」が見えてきます。このホテルの敷地内に小さな祠が建っているので覗いてみましょう。案内板がなければここがどのような場所であるのか分かりませんでした。このように記されています。

 『堀河院苑池の瀧口
この京都全日空ホテルの敷地は、平安時代前期に創立された堀河院の一部である。昭和59年ホテル本館の建設工事に先立ち遺構確認の発掘調査を行い、苑池の痕跡を認め、東岸の瀧口のみこの地に移し遺材を以て復元し、その庭園の優雅な趣を偲ぶよすがにした。
 堀河院は堀川の東、二条の南にあり、東面は油小路、南は二条坊門に面し、九世紀半ば摂政関白の藤原基経がその邸宅として造成し、皇居焼亡の時には里内裏にも使われ、邸宅としてはその建築も庭園も京内有数のものであった。幾度か火災に遇い、治承3年(1177)焼亡以降再建はなかった。それ故にこの遺構は平安盛期の庭園を代表するものになる。』

 1177年以降、一度も再建されなかったということから、この地には鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治とさまざまな建物が建てられては壊され、また建てられ……を繰り返してきたのでしょう。武家の屋敷になったり,茶室や庭園が広がる邸宅になったり、時には商家や旅籠であった時代もあったのかもしれません。そして今、ホテルとして二条城をはじめ京都観光に訪れる内外の観光客を迎える宿となっています。二条城は未来永劫残っていきますから、ホテルもずっと残っていくのでしょう。ここが堀河院苑池であったことも伝え残っていってほしいものです。

 なつかしい豆腐店の前を通り過ぎ、今出川通までやってきました。

球技の守護神・白峯神宮

球技の守護神・白峯神宮

 今出川通に面した白峯神宮は「蹴鞠(けまり)」の宗家である堂上家、飛鳥井家の邸宅跡であることから、「蹴鞠→蹴球→サッカー」をはじめ、あらゆる球技の神様として人気を集めています。

 蹴鞠は仏教とともに中国から伝わったといわれ、中大兄皇子のちの天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)の話が有名ですね。中大兄皇子が蹴鞠をしていたとき、勢い余って履物が脱げて飛んでしまいます。それを拾い上げたのが中臣鎌足で、この一件をきっかけに2人は意気投合し友となります。そして、2人が成し遂げたのが「大化の改新」です。蹴鞠が取り持つ縁で、日本の国家構築が実現したのですから面白いですね。

 境内は、修学旅行などで京都訪れる中高生でにぎわっていました。おそらく、球技のクラブに所属している生徒たちでしょう、深々と頭を下げてお参りしていました。

 やがて、油小路通は上立売通で一旦途絶え、紫明通まで中断しています。近くの小川(こかわ/おがわ)通を北上しましょう。小川通は、かつて小川が流れていましたが、今は暗渠となっています。通りに沿って表千家の不審菴、裏千家の今日庵が並んでいて、日本茶道の聖地といえるエリアを形成しています。おそらくこの地域にはよい水脈があり、清らかな水が湧き出ていたのでしょうか。着物姿の女性たちがひっきりなしに行き来しています。落ち着いた、風情のある情景のなか、ゆっくりと歩いてみたいものですね。

El calaveraで作りたてタコスを
El calaveraで作りたてタコスを

El calaveraで作りたてタコスを

 紫明通からふたたび油小路通がはじまり、住宅街を抜けると、北大路通に出ます。 北大路は、東大路、西大路とともに明治から大正、昭和初期にかけて整備された大路で、かつて京都市電が敷設されていました。東西北があって南大路がないのは、五条通から南は時代によって大路が変化するからで、市電が走っていたことで考えるなら、東寺がある九条通が南大路に当たるのかもしれません。

 油小路通が北大路と交わったところで、色彩豊かなキッチンカーが目に入ります。 “El calavera”(エル・カラベラ)というタコス屋さんです。注文ごとに焼き上げてくれるトウモロコシ100%のトルティーヤと、さまざまなチレ(唐辛子)を使った自家製サルサのメキシコ料理・タコス。具材と食べ方を選び、お好みでサルサをトッピングして頂きます。ちなみに「タコ/taco」とは、スペイン語で「軽食」を意味するんだそうです。

 注文したのは、トウモロコシ100%の生地を焼き、たっぷりの具を載せた「タコス/tacos」と、コーンチップを油で揚げてアボカドディップを載せて頂く「ワカモレ/guacamole」、そして櫛形切りにしたライムを壜の中に押し込んで風味を付けた、よく冷えたコロナビール!最高の取り合わせです。

 サルサソースは3種類あって、写真むかって左の「ROJA/ロハ」は、赤いソース。 中央の「VERDE /ベルテ」は緑色のソース、右側は「JALAPENO/ハラペーニョ」で唐辛子の酢漬けです。いずれのサルサも、メキシコの風を感じさせてくれる風味ですね。どれも頂きたくなります。

 北大路沿いのテラス席で、風景を眺めたり、店主の西田将伸(まさのぶ)さんと話をしたりしながら頂くのが気持ちいいです。店をオープンして6年目。現在の建物「ふじの間」では、2019年3月から営業しているそうです。メキシコ料理を味わうお店は各地にありますが、焼き立て出来立てのタコスを賞味できるのは、他所ではあまりありません。ぜひ、散策の帰りに立ち寄りたいお店です。

El calavera(エル・カラヴェラ)

〒603-8165
京都市北区紫野西御所田町48-1
080-3101-9992
午後1時~午後8時
月曜日(イベントの際は臨時休業します)
https://www.facebook.com/taqueriaelcalavera/

 北大路通から、さらに北に向かって油小路通は続いています。最終地点となるのは、賀茂川に近い加茂川中学校あたりになります。時間が許せば、もっと歩いてみてもいいでしょうね。



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

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