一日散策 関西歴史紀行 【西大路通 Nishioji】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN43 西大路通 Nishioji

西大路通 Nishioji西大路通 Nishioji
西大路通 Nishioji

 西大路通は、京都市の中心から西側を南北に貫く幹線道路で、北は、金閣寺のある北大路通から、南は十条通までを結ぶ長い通りです。通りは片道2車線の車道で、舗道も全面的にあります。

 歴史的には、平安京が造られたとき「野路小路」と呼ばれた小路でした。小路とはいえ道幅12mもある幅の広い道で、多くの人たちが行き交う道であったと思われます。しかし、右京の衰退とともに都の中心地から離れ、豊臣秀吉が天正18年(1590)に実施した「天正の地割」により、聚楽第と御土居を築き、京都の町は大改造されます。この時に、西大路通は「洛外」へと押しやられてしまいます。

 明治期から大正時代、京都市内には市電が敷設されますが、西大路通を市電が走ったのは昭和3年(1928)11月の西ノ京円町と西大路四条間が最初で、その後、四条~七条~九条間、千本北大路~わら天神前~北野白梅町間が順次開通し、昭和18年(1943)10月1日に残っていた白梅町~西ノ京円町間が開通して、晴れて西大路通全区間に市電が走りました。しかし、35年後の昭和53年(1978)10月1日には西大路線をはじめ京都の市電全線が廃止されてしまいます。

 しかし、現在の西大路通は、八条にはJRの「西大路駅」があり、四条には阪急電車の「西院駅」、三条には嵐山電車の「西大路三条駅」、さらに西大路と今出川が交わるところには同じく嵐山電車の「北野白梅町駅」があり、大阪や京都の西、嵐山方面へ向かう起点駅が並んでいます。

 また、西大路通には由緒ある神社が多く、その中でも吉祥院天満宮、若一神社、西院春日神社、大将軍八神社、熊野神社衣笠分社、平野神社、わら天神の七つの福を招く社があり、「西大路七福社ご利益めぐり」の御朱印を受けることができます。こうした楽しみ方ができるのが西大路通の魅力です。

 今回は、西大路十条にある「吉祥院天満宮」をスタート地点にして、金閣寺のある北大路通まで、西大路通を歩いてみましょう。

吉祥院天満宮から
吉祥院天満宮から

吉祥院天満宮から

 吉祥院天満宮へ行くには、京都駅から市バス42系統で、四条烏丸からは市バス43系統に乗車し、「吉祥院天満宮前」まで乗るのが便利です。

 吉祥院天満宮は、菅原道真公を祀る洛陽天満宮25社の1社。社伝によりますと、道真公の祖父である清公が屋敷内に一宇を建立して、吉祥院として菅原家の氏寺としたのが始まりで、承平4年(934)に朱雀天皇が道真公の像を刻み、社殿を建立して道真公を祀ったといわれています。承平5年(935)には関東で東国の独立を標榜して平将門が叛乱を起こし、翌年には藤原純友が瀬戸内海で「承平天慶の乱」を起こす、という時代です。

 朱雀天皇が社殿を築いてから、この社は「吉祥院天満宮」と呼ばれるようになりました。この地域は古来より民間信仰で、民俗芸能である「六斎念仏」がおこなわれていて、「吉祥院六斎念仏踊」は国の重要無形文化財に指定されています。「六斎念仏踊」はおもに関西でさかんで、佛教の教えによる斎日は8日、14日、15日、23日、29日、30日といわれることが多く、それらの期間に踊られましたが、「吉祥院天満宮」では、道真公の命日である4月25日の春祭と、8月25日の夏祭に境内の舞殿で奉納されます。また、「知恵と能力開発」「受験合格」「開運招福」の神様でもあります。ご利益を期待して出かけたいですね。

 「吉祥院天満宮」から西大路通を北へ。車の往来が多い道ですが、広い舗道が整備されています。JR東海道本線の「西大路駅」が見えてくると、JR線と新幹線の高架下をくぐりぬけます。すると、こんもりとした森が見えてきます。「若一神社」です。

吉祥院天満宮

〒601-8331
京都市南区吉祥院政所町3
若一神社で昔日に想いを馳せる
若一神社で昔日に想いを馳せる

若一神社で昔日に想いを馳せる

 西大路通に面して建つ「若一神社」は「にゃくいちじんじゃ」と読みます。光仁天皇の御代といいますから、平安京を建都した桓武天皇の一代前、奈良時代の天皇で、このときに唐より威光上人が渡ってこられ、大坂天王寺に居を構えます。上人が熊野に詣でた折、生きることに迷い苦しむ人々を救おうと熊野の御分霊である「若一王子」の御神体を笈に負い、現在のこの地に来られ(当時は平安京の都はなく、深い森が広がっていました)古いお堂で一夜を明かします。すると御神意を受け、この古堂に「若一王子」を安置し奉斎鎮座給われました。その後、この地に異変が起き、御神体は地中に埋もれます。

 時は流れ、平安末期。隆盛を極めていた平清盛公が六波羅に居を構えていた頃、この界隈は風光明媚な地であり、「西八条御所」という別邸を造営します。そして、仁安元年(1166)8月、清盛が熊野詣に向かった際に御告げがあり、「地中に隠れたる若一王子の御神体を世に出して奉斎せよ」と告げられます。清盛が別邸を探索すると、東の築山が光り輝き、掘るとそこから御神体が現れたのです。

 清盛は社殿を造営し、開運出世を祈願したところ、翌年に太政大臣(だじょうだいじん)を任命されたことから、以降この若一神社は開運出世の神様として多くの人々に尊崇されるようになったのです。

 社は、西大路通に対して少し膨らんだようになっていて、小径をはさんで築山があり、そこに立派な楠の大樹が天に伸びています。清盛公御手植えといわれています。元来、社殿は現在の西大路通側に広く境内を持っていましたが、西大路通整備のため東側へ社殿が移動したそうです。しかし、楠だけは移植できず残されていることから、近代になって京都市電が敷設される際、西大路通と市電の線路を曲げたのです。こうした設営をしたのは、京都市内ではこの「若一神社」と、烏丸通にある東本願寺という稀なケースです。

 境内に足を踏み入れると、西大路通の喧騒が遥かに遠のき、神聖な空気が流れているのを感じます。そして、境内全体が清らかな水に包まれているように感じるのは、この地が「浅水の森」と称された名残なのでしょうか。片隅には銘水が湧き出ていて、近所の人たちが毎日多数、授かりに訪れます。とりわけ、開運出世の水ということで新生児の産湯に使うといいそうです。

 境内に佇んでいると、21世紀の現代から平安時代に時空を飛び越えたような感覚になります。

清盛公と祇王祇女、仏御前
清盛公と祇王祇女、仏御前

清盛公と祇王祇女、仏御前

 「若一神社」の境内に石碑が建っていて、そこにはこのように刻まれています。

 “萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき”

 この歌の作者は祇王(ぎおう)という白拍子(歌い踊る芸の者)で、彼女は清盛公の寵愛を受けていました。ところがある日、仏御前なる白拍子が西八条御所にやって来て、踊りを披露したいと申し出るも断られます。しかし祇王の取り成しで清盛公の前で歌い踊ると、公は仏御前を気に入り、やがて祇王が追われる身となってしまいます。

 今の感覚でいえば、祇王の取り成しは余計な世話であったのかもしれません。しかし、祇王には純粋な心、優しい心根があったのでしょう。仏御前に千載一遇の機会を与えたのです。ところがそれが自分の身を追い込むことになるのは、悲運としかいいようがありません。

 先に挙げた歌は、祇王が屋敷を追われる前とか、屋敷を離れた後に仏御前が淋しがっているから慰めに来るよう清盛公から促されて訪れた際に書いたものともいわれています。「春、草花が萌えて芽吹くことは、萎れて枯れていくのと同じこと。秋になれば枯れ果ててしまうんですから」。祇王は女性の生命を野の花に喩え、「時が過ぎていけばいつか必ず花は枯れてしまう。私がそうだったように、仏御前もそうなるわ。清盛さんに飽きられない人なんてどこにいるのかしら?」と、自分の運命を仏御前に重ね、さらに清盛公に対して、ちょっと恨み言めいた言い方をしているように思えます。

 清盛の屋敷を出た祇王は、妹の祇女と、母の刀自と共に嵯峨の往生院に入ります。現在の「祇王寺」です。そして後日、仏門で尼僧として暮らす彼女らの許へある女がやって来ます。それは、あの仏御前です。彼女も清盛公に飽きられたのか屋敷を出てしまったのです。祇王たちは仏御前を受け入れます。ところが仏御前は清盛公の子を身籠っていたことから、寺で産むことは叶わず、故国である加賀国に向かい、死産した末に故郷で亡くなります。現在、石川県小松市原町に仏御前の墓所があります。

 また、清盛公が祇王を寵愛していた頃、祇王から懇願されて祇王の故郷である近江野洲に水路を造営します。野洲の地は干ばつに苦しむ百姓たちが大勢いたからです。清盛公は約束通り水路を造り、現在野洲を流れる祇王井川(ぎおういがわ)がその川です。

 祇王の物語は、『平家物語』巻第一「祇王」に詳しく書かれています。

若一神社

〒600-8863
京都市下京区七条御所ノ内本町98
075-313-8928

 「若一神社」から西大路通りを北に向かって歩き進みます。八条付近からしばらく、ビルや工場など車の往来が激しい道なので、市バスに乗って西大路通の四条、「西院(さいいん)」までショートカットしてもいいと思います。

西院から北野白梅町へ宮

西院から北野白梅町へ

 阪急電車の「西院駅」周辺はにぎやかなところで、商店や居酒屋が軒を連ねているちょっとした繁華街。蛸薬師通りを少し西へ入ったところに「妖怪堂」という看板を掲げた不思議な店があったりします。店頭に張り紙があり、「妖怪講座」(有料)が受講できると書かれてあります。今回はご紹介できませんが、今後機会があればご案内したいと思います。なかなか興味深い講座ですね。

 さらに西大路通を上ルと、三条通に嵐山電車の電車道がクロスしています。四条大宮から嵐山方面へ向かう路面電車で、京都市電なき後、市内を走る路面電車が残っているところが京都らしいですね。京都市電が廃止されたのは、車の増加などさまざまな要因が考えられますが、古都京都を巡るに路面電車が最もふさわしい移動手段ではなかったかと思います。この西大路通をはじめ、北大路、東大路、さらに今出川、丸太町、烏丸通、河原町通、千本通、白川通など縦横無尽に路線を延ばしていた京都の市電。排気ガスを放出することもないクリーンな鉄道網は、町中が世界遺産といってもいい京都にうってつけの乗り物だったと思います。

 西大路と丸太町通が交差するところを「円町(えんまち)」といいます。西ノ京円町ともいわれるように、昭和中期頃までは映画館や飲食店が多く並ぶ歓楽地でした。「円町」と呼ぶのは、この附近に「西囚獄(にしのひとや)」という牢獄があり、少人数を囲う際は「囚」の字を用い、多くの囚人を囲んでいる場合は「圓」の字を使うことから、「円町」という地名になったといわれています。

 刑場などが、後に歓楽地になった例として有名なのは、大阪ミナミの千日前があります。明治まで千日前は墓地と刑場でしたが、今やミナミを代表する繁華街となっています。

 この「円町」の交差点手前にJR山陰本線の高架があり、西大路通はその下を潜り、坂道となっています。京都市内にはあまりこうした坂道は見受けられないのですが、ここは結構な坂道で、運転免許取得の自動車学校の仮免許走行コースにこの円町南側の坂道が組まれています。ミッション車のクルマの坂道発進の要所なんですね。今はオートマチック車が多いので、ミッションでの坂道発進の難しさは経験することはないかもしれません。この窪地は、豊臣秀吉が聚楽第を建設した際に御土居として造営されたことに由来しているようです。

 やがて、嵐山電車の支線終着駅である「北野白梅町駅」が見えてきます。ここも、多くの観光客が利用する駅で、嵐山方面から北野天満宮や、金閣寺方面へ向かう人たちが乗降車しています。

二条天皇御陵へ
二条天皇御陵へ

二条天皇御陵へ

 「北野白梅町駅」は今出川通にあり、さらに北へ進んでいくと「二条天皇香隆寺陵」と木製看板のある御陵があります。静かな住宅地のなかにある比較的広い御陵で、ちょっと立ち寄ってみたくなる雰囲気があります。

 二条天皇は第78代天皇で、後白河天皇の第一皇子です。祖父の鳥羽上皇の皇后である藤原得子(美福門院)に育てられ、さまざま情勢の中、15歳で天皇となります。即位してから二条天皇は、父である後白河上皇の院政に対して抵抗します。そこで後白河は藤原通憲を頼り、源義朝や平清盛など武士との結束を強めることになります。その結果、平氏の政権が誕生し、以降700年に渡り武家社会がつくられていくことになります。

 ところが、勢力内での内紛「平治の乱」が起こったり、後白河上皇と平滋子(建春門院/平清盛の妻・時子の妹)の間に新しい皇子である憲仁新王(後の高倉天皇)が誕生したりしたことで、二条天皇と後白河の父子対立はさらに激化していくように思われました。しかし、二条天皇は病に斃れ、23歳という若さで崩御してしまうのです。長寛3年(1165)7月のことでした。二条天皇は「末の世の賢王におはします」といわれるほど、優れた人物であったといわれています。

 御陵にある「香隆寺」とは、平安中期創建の真言宗の寺院であったといわれていますが、鎌倉時代に廃寺となり、現在の御陵は明治中期に造営されたものです。この陵がある衣笠から船岡山一帯は古くからの埋葬地で、「関西歴史紀行」でご案内している「馬代通篇」の「堀河天皇火葬塚」も近くにあります。東山の鳥辺野(とりべの)、西山の化野(あだしの)、北山の蓮台野(れんだいの)は古くからの風葬地であり、天皇は火葬されていますが、この地域は人々が葬られる地であったようです。

 二条天皇御陵は白砂も美しく、清冽な印象があります。西大路通から少し西へ入り込みますが、訪ねていく価値はあります。

二条天皇香隆寺陵

京都市北区平野八丁柳町付近
安産祈願の「わら天神宮」さん安産祈願の「わら天神宮」さん
安産祈願の「わら天神宮」さん

安産祈願の「わら天神宮」さん

 西大路通に戻り北へ向かうと「平野神社」の鳥居が見えてきます。桜の名所として名高い「平野神社」は、「関西歴史紀行」の「上立売通篇」でご案内しています。

平野神社

〒603-8322
京都市北区平野宮本町1
http://www.hiranojinja.com/
午前6時~午後5時

  さらに進んでいくと、「わら天神宮」が通りの西側に見えてきます。正式名称を「敷地神社」といい、社伝によると、山背(やましろ)国葛野郡衣笠に降臨した天神地祇を神様とする神社です。御祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)、御神徳は、安産・子授・家内安全・災難厄除、開運必勝、心願成就など、多くの御利益があります。地元の人たちにとっては「安産の神様」としての信仰が篤い社です。

 しかし、「わら天神宮」という名称はちょっと不思議です。「わら」とは何なのか?

 古来より、「稲わら」で編んだ籠に神饌(しんせん/神に供える酒食)を神様に捧げていて、その稲わらが抜け落ちたものを安産を願う妊婦さんが持ち帰るという風習がありました。この「稲わら」がお守りになったというわけです。さらに、お守りの「稲わら」に「節=フシ」があれば男児が、「フシ」がなければ女児が産まれるという言い伝えが広がりました。

 こうしたことから、敷地神社は「わら天神宮」「わら天神さん」と呼ばれるようになったそうです。妊娠九ヶ月九日の日は、授乳祈祷の「あま酒」の授与があり、毎月九日は参拝者で境内は大いににぎわいます。

わら天神宮/敷地神社

〒603-8375
京都市北区衣笠天神森町10
075-461-7676
午前8時30分~午後5時
http://waratenjinguu.com/

  さて、この西大路通沿いには、七社の福を招く神社があり、初春にこれら七社に参拝して御朱印を受ける行事があります。「西大路七福社ご利益めぐり」というもので、

○吉祥院天満宮(南区吉祥院西大路十条西入北)=知恵と能力開発
○若一神社(下京区西大路八条上ル)=開運出世
○西院春日神社(右京区西大路四条西入上ル)=災病厄除
○大将軍八神社(上京区一条通御前西入)=方除
○熊野神社衣笠分社(北区小松原北町)=健康長寿
○平野神社(北区平野宮本町)=開運
○わら天神宮(北区衣笠天神森町)=安産

 バスで移動すれば、ゆっくりと1日で参拝できるコースですので、西大路通散策がてら、新しい年の始まりの頃にはめぐってみてもいいでしょう。



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

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