一日散策 関西歴史紀行 【東洞院通 Higashinotouin】

京都の通り1本を端から端まで 1日で歴史を味わう散策コース

PLAN45 東洞院通 Higashinotouin

東洞院通 Higashinotouin東洞院通 Higashinotouin
東洞院通 Higashinotouin

 東洞院通は、京都駅前の塩小路通から京都御苑南側の丸太町通までの約3.5キロの通りで、平安京時代の東洞院大路にあたります。「関西歴史紀行」でご案内した「西洞院通」と同じく、天皇が上皇となってから暮らす御所のことで、西と東に上皇をはじめ公家の邸宅が多く並んでいました。また、通りに沿って東洞院川が流れていたともいわれています。

 平安時代には、現在の京都御苑はなかったので、洛中の最北部は一条大路でした。そこから南へ伸びる東洞院通は大いに賑わいのある大路でしたので、さまざまな出来事がこの通りを舞台に繰り広げられたようです。なかでも寿永3年(1184)の源平合戦のひとつ「一ノ谷の戦い」で敗れた平家一族の首が、東洞院大路を引き回された、という記録があります。

 元弘年間(1331~1333)は後醍醐天皇の御代でありながら天皇家が南北に分かれた時代であり、北朝初代は光厳天皇でした。光厳天皇は土御門東洞院に内裏(天皇の住まい)を造営しますが、これが後の京都御苑の原型になります。

 興国3年/康永元年(1342)には、婆娑羅(ばさら)大名として有名な土岐頼遠(とき よりとお)が、光厳上皇の牛車に矢を放ったといった事件があったり、応仁の乱では大きな被害を受けるものの、江戸時代になってからは、南に延びる竹田街道につながる通りであったため、あまりに多くの人々や牛車、大八車などが通行し渋滞を起こしたあげく、北行きの一方通行道路となりました。これは、わが国初の一方通行の道です。

 江戸時代には現在以上に多くの商店が並んでいた東洞院通。京都駅正面を少し東に歩いたところを起点にして、北に向かって歩き始めましょう。

日本最初の電気鉄道発祥の地から
日本最初の電気鉄道発祥の地から

日本最初の電気鉄道発祥の地から

 京都駅の前を東西に延びる塩小路通と、東洞院通が交差するところに「電気鉄道事業発祥の碑」が建っています。明治28年(1895)2月1日に、この地から伏見の下油掛通りまでの約6キロを、日本初の電気鉄道が走りました。京都電気鉄道株式会社という企業が敷設したもので、この事業の成功をきっかけに電気鉄道は日本全国へと広がっていったのです。鉄道は昭和45年(1970)に廃止されましたが、日本初の電気鉄道発祥の地が今も記録されています。この石碑を目印にして歩き出しましょう。 

電気鉄道事業発祥の碑

下京区塩小路通東洞院南西角

 東洞院通は、日本で初めて「一方通行」となった通りだと書きました。南へ伸びる竹田街道とつながっていたからですが、当時は北行きの一方通行でした。しかし現在は南行きとなっています。意外と車の通行量が多いので注意しましょう。

 東洞院は大路でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の京都大改造により、道幅が狭められ、大路とは呼べない通りになってしまいました。新しい家と古い家が混在し、町家を改造した民泊なども建てられています。

婆娑羅(ばさら)という者

婆娑羅(ばさら)という者

 通りに「贈従五位赤松小三郎先生記念碑」という石碑が建っています。慶応2年(1866)から京都で私塾を開き、英国式兵学の教鞭をとった人物で、後の明治維新で活躍した多くの者がここで学んだといわれています。

 赤松は『英国歩兵練法』などの軍事書を翻訳し、薩摩藩内部でのみ閲覧できたそうで、島津久光はこの翻訳を大いに喜び、赤松に最新式の騎兵銃を贈ったそうです。

 しかし、慶応3年(1867)9月、この東洞院通で薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)らに襲われ暗殺されます。中村半次郎は「赤松は幕奸(幕府方のスパイ)だったから」とその理由を記していますが、薩摩藩にとって先生にあたる赤松を暗殺するのは、大きな闇がその背後にあるように思えます。

 この赤松の暗殺事件から3か月後の12月、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されます。いずれも暗殺されなければ、明治維新の形も大きく変化していたであろうし、大正、昭和、平成、そして令和の現代までのわが国の歴史の糸は、今とは少し違う張り方をしていたのではないかと思います。

贈従五位赤松小三郎先生記念碑

京都市下京区東洞院通鍵屋町下ル西側

 さて、室町時代(南北朝時代)の初期は、後の戦国時代に連なる実力主義社会到来の前哨戦といった気配が世に漂います。そこに登場したのが、天皇や公家などの権威を嘲笑する者ども、「婆娑羅」と呼ばれる一派で、彼らは派手な衣裳に身を包み、大仰な振る舞いをする、人騒がせな存在でした。

 そんな中に土岐頼遠という美濃出身の武将がいて、興国3年/康永元年(1342)9月6日、東洞院と樋口小路(現在の万寿寺通)が交わるところに光厳上皇の牛車が差し掛かったとき、酩酊した婆娑羅大名・土岐の一群と遭遇します。
「院の御前であるぞ!」
上皇の守護たちが叫ぶと、土岐頼遠は、
「院というたのか?犬というたのか?ふふ、犬なら始末してやるぞ!」
そう叫ぶやいなや、矢を牛車に向けて放ちます。矢は牛車の屋根を射て、光厳上皇たちは急いでその場を逃れますが、これが都を揺れ動かす大事件となったのでした。

 この話を聞いた征夷大将軍足利尊氏の弟、足利直義は土岐頼遠を捕らえる命を出します。頼遠は助命のために夢窓国師の臨川寺(右京区/臨済宗天龍寺派)に逃げ込みます。夢窓国師は、足利尊氏も直義も師と仰ぐ禅僧であったためです。しかし直義は、「国師の口添えとあらば、頼遠は許さぬが子孫は許してやる」といい、臨川寺を取り囲み頼遠を捕縛します。武将として優秀であった頼遠の助命を嘆願する声は多く、直義は即座に頼遠を処刑することができなかったそうです。事件から3か月後の12月、遂に頼遠は六条河原で斬首されてしまいます。

 足利尊氏、直義兄弟にとって、光厳上皇は、その弟である光明天皇とともに、征夷大将軍である足利家の名分を保障する治天の君であることから、光厳上皇に矢を放った土岐頼遠に目をつぶるわけにはいかなかったのでしょう。

 この遭遇事件が起こったのが写真にある辻で、東洞院と万寿寺通が交差する場所です。現在ここには光厳天皇や土岐頼遠にまつわるものがありません。小さな案内板でいいので、この都を揺るがした事件を後世に残してほしいものです。

応仁の乱以前からある保昌山
応仁の乱以前からある保昌山

応仁の乱以前からある保昌山

 歩いていると、立派な木製看板が立っています。「燈篭町会所(保昌山)」とあり、祇園祭の際に出す山鉾「保昌山」が納められています。保昌山は別名「花盗人山(はなぬすっとやま)」といわれ、丹後守の平井保昌が和泉式部のため、紫宸殿の紅梅を手折ってくる様子を表しています。男性の縁結びの神様で、女性の縁のない男性にとっては、ぜひとも願いを掛けたいところです。

 この会所の敷地は、享保19年(1734)に近江屋五郎兵衛から購入したとされ、当時からここに会所が存在しています。建物は明治3年(1870)に築かれ、祇園祭会所として非常に貴重な建物であることから、京都市指定有形文化財に指定されています。

 ぜひ、七月の祇園祭で山鉾「保昌山」をご覧になってください。

燈篭町会所(保昌山)

〒600-8434
京都市下京区東洞院高辻上ル

 四条通を少し下がったところに「悪王子社」の祠がビルの前に建っています。「関西歴史紀行」の「不明門通」篇でご案内していますが、天延2年(974)、八坂神社の摂社としてこの地に建てられたもので、八岐大蛇を倒した素戔嗚尊の偉業をたたえ、その荒御魂を祀ったことに由来しています。

 秀吉の時代になると烏丸五条に移され、明治時代になると八坂神社内に移されます。平成の代になり元の神社のこの地にこの小さな祠が建てられたのです。

悪王子社

〒600-8091
京都市下京区東洞院通綾小路上ル元悪王子町付近

 そして、東洞院通はにぎやかな四条通と交わります。ちょっとカフェにでも立ち寄るのもいいでしょうね。

商業の町並み
商業の町並み

商業の町並み

 東洞院通は、上皇や公家の邸宅が並ぶ通りですが、江戸時代になると多くの商家が軒を連ねるようになります。江戸時代の京都観光案内書である水雲堂狐松子作の『京羽二重(きょうはぶたえ)』(貞享2年~1685)によると三味線屋、唐紙店、箔問屋、金銀粉屋、鎧象嵌、茶柄杓店、銅道具店など、さまざまな店があります。人通りの多い、繁華街であったのでしょう。今も、江戸初期創業の仏教書出版の老舗が、うるわしい看板を掲げています。

 錦小路を少し上がったところに、「画家呉春宅址」という小さな石碑が建っています。与謝蕪村や円山応挙に学び、四条派という新たな画風の祖となった人物で、司馬遼太郎の小説『天明の絵師』に描かれている松村月溪(1752~1811)のことです。松村月渓は堺町四条付近に生まれますが、一時期摂津国の池田の地に住みます。池田は「呉服の郷」と呼ばれていて、ここで春を迎えたことから月渓は「呉春」と名乗りました。池田の銘酒「呉春」はこの画家との深い関係があります。

画家呉春宅址

京都市中京区東洞院通錦小路上ル西側
どこか懐かしい東洞院

どこか懐かしい東洞院

 御池通を越えていくと、東洞院通周辺の風景が少し変わります。商店なども並んでいますが、建て込んだ感じがなく、ゆるやかで柔和な印象のものになります。のんびりと歩きながら周辺の情景を眺めるにはとてもいい環境です。「姉小路通」篇でご紹介した享保12年(1727)創業の老舗「八百三(やをさん)」が見えてきます。白味噌にユズを合わせた味がうれしい逸品で、お土産に買い求めたいですね。

 姉小路東洞院車屋町の古い住所看板などが掲げられています。そして、御池通を越えると老舗の商家が目に飛び込んできます。慶長 13 年(1608年)、糸割符商として創業され、江戸時代中期からは銘酒「嶋臺(しまだい)」を扱う酒問屋も兼業し、大いに繁栄をしたそうです。今はギャラリーとしてにぎわっています。

 ひと一人がようやく通行できる狭い路地があったり、食料用色素の販売店の古くて目立つ看板があったりと、目を楽しませてくれるものがたくさんあります。

佐藤忠信と東洞院通丸太町

佐藤忠信と東洞院通丸太町

 京都御苑の樹木が見えてくる手前、丸太町通に出ようという駐車場の片隅に、小さな石碑が建っています。「書家岸駒(がんぐ)居住地」を示すものです。岸駒(1749~1839)は、江戸後期に京都で活躍した絵師で、虎の絵をよく描きました。できれば整備して、岸駒が何者であったかが分かる案内板を建ててくれたらと思います。

書家岸駒居住地の石碑

〒 604-0871
京都市中京区東洞院通丸太町下る三本木町

 歴史学者の角田文衛(1913~2008)さんの『平安京散策』(京都新聞社1991年)にこのような一文があります。「女性と縁を切る場合には、よほど要領よくやらないととんだことになる。東洞院通丸太町のあたりを通る度にそのように痛感するのであるが、義経の股肱の家臣であった佐藤家の藤原忠信の最期などは、まさにその好例といえよう。」

 忠信は、兄の継信とともに源義経の楯となって働きましたが、兄は討死してしまいます。京都に戻った忠信は情念の強い人物であり、青女のもとに通いました。青女とは浮女(うかれめ)を指す言葉で、遊女であったと思われます。忠信は誠実な人間で、純情でもあったようです。すっかりその女に入れあげてしまい、彼女が不在の折、置手紙をしてしまいます。それが女の情夫に知れて、関東の御家人で、京都にいた藤原有季の手に渡ってしまいます。有季は東洞院通の屋敷に潜んでいた忠信を襲い、討ち取られてしまいます。

 人形浄瑠璃や歌舞伎の「義経千本桜」であれば、佐藤忠信は鼓の音とともにキツネに化けて逃れることができたかもしれませんね。

 何気なく気を許してしまったことで、窮地に追い込まれる話は古今東西、いつの世もあるものなんでしょうね。東洞院通の終点となる丸太町。横断歩道を渡って京都御苑に入ってみるのもいいかもしれません。



(写真・文/上野卓彦 寺社、城、街道、石碑、昔の暮らしなど歴史をめぐる文章を雑誌等に執筆。京都の路地や辻子、図子にあるお地蔵様や大日如来様、仁丹琺瑯看板などを探して歩いているライター)

関西城紀行TOPにっぽん紀行TOP
《 広告に関するお問い合わせはこちら 》
株式会社日豊社
〒530-0044 大阪市北区東天満1丁目12番13号 IAG天満ビル
TEL 06-6357-3355 FAX 06-6357-3406

PAGEトップへ